落語のなかに「崇徳院」という噺がある。
いわゆる恋煩いをあつかった噺なのだが、落語のなかで色恋沙汰や艶話をあつかったものは、どちらかというと遊女、女郎相手が多いなかで、この噺では、さる大家の若旦那が清水の茶屋で偶然出会ったお嬢さんにひと目惚れする、というところから噺が始まる。
ぜひに噺家の口から、このもの語りを聴いていただきたいのだが、恋する若者のあいだを右往左往する主人公クマとなにがしの、徒労にも似たトホホぶりが面白い噺である。
で、なぜにこの話を持ち出したかというと、先日、呑み屋で似たような徒労話を聞かされたからである。
どういうことかというと、その呑み屋の若い男の常連客のひとりが「彼女ほしー」「俺はどうやったら彼女できるんスか」と言い出したからである。
むかしからよくある呑み屋話なので、結末はたかがしれているのだが、だがしかし、むかしと比べると昨今、様子がかわったようなので、少々、考えさせられたこともあって、ちと書いてみようと思う。
まず、その若いやっこさん、そもそも呑み屋でそうやって、くだ巻いている時点で、そりゃぁモテんだろうと店中から言われていた。
そのとおりである。
それでもしつこく喰い下がるので、歳のいった客の一人がこう諭していた。
男女の仲というものは、追えば逃げる、逃げれば追われるものだ。
彼女がほしー、ほしーと、のべつ言いふらしている者に、彼女は寄ってこない。
反対に、彼女がほしーなどという存念は捨てて、それこそ、まったく関係のない、仕事などにでも精を出していれば、そのうち、その仕事に精を出すおまえの真剣なまなざしを陰からそっと見つめる熱っぽい想いに気づくときも来ようものである。
どうだ、わかったか。
こんなところでくだ巻いている暇があったら、はたらけ、若者よ。
さすれば、彼女も自然に隣にいる。
そんな諭しを入れていたのだが、まあ、酔っ払いの言うことだから話半分に聞いたとしても、追う追われるのくだりなどは、なかなかにことの真相をよく捉えているようにも聞こえた。
ところが、である。
いや、そういうことじゃないんスよ、とあっさり斬り捨てられていた(笑)。
そういうことじゃなければ、どういうことなのかというと、昨今、男女の出会いなどというものは、マッチングアプリだかAIだかが簡単にセットアップしてくれる。
それこそお膳立てなどは、ある意味、万端であって、そこからどうやったら彼女になってもらえるのか、ということらしい。
これを聞いた歳のいった常連たちは、半眼スリープ・モードに入る始末で、皆んなして時代はそこまで進んだのかと遠くを眺める想いがわいた次第である。
が、それにしてもこれは、聞けば聞くほどに、考えれば考えるほどに、なかなかに難儀なお題であるようにも思えてきた。
これはつまりは、マッチングアプリやAIの出した「答え」同士の、答え合わせである。
虚偽のないかぎり、お互いに手の内はすでにさらしあっているわけで、答えは出ているのだからすんなり男女の仲になれるのかといえば、聞いたところでは、そうでもないようである。
会ってみて、なにか違うということは往々、怏々にしてあるわけで、これが事態をいっそうややこしくする。
自分のどこが、相手の彼女彼氏ならざるところなのか、あるいは相手のなにが、自分の彼女彼氏ならざるところなのか、これをうまく自分の腑に落しきれない、ということが起こる。
しかも、相手も同じところをさぐっているわけで、ことわるにしろ、あるいは踏みとどまって一旦、試みにつき合ってみることにしたとしても、なにがなんだかややこしことになりはしまいかと余計な勘ぐりを入れてしまいそうな「腹の探り合い」が発生するという(先ほどの若人談。意訳)。
たしかにこれは、聞いていて、どこかむず痒い心地がした。
いまいちど整理すると、先ほどの問い、「俺はどうやったら彼女できるんスか」という問いは、どこか、問いかける相手を見つけることのできない、ぶつけどころの見えない叫びのようにも聞こえてくる。
惚れた腫れたという問題が、「自分とはなんなのか」という問題に、いつの間にかスリ替えられている感じがしないでもない。
相手のことを単純に好きだという感情が出てくる以前に、やたらと自分のことばかりに煩悶させられすぎて、相手のことをおもんばかるどころか、素通りしそうな勢いすらある。
しかも互いに、ボタンのかけ違いなどが起きようものなら、目も当てられないことになりそうな予感すらする。
こういうかけ違いはむろん、むかしから恋愛話につきものではあるが、アプリやAIの介入によって、よりいっそう、自分の不甲斐なさや虚しさを突きつけられそうな怖さも感じさせる。
出会いの機会に恵まれないという話題はむかしからよく挙げられてはいたが、こういう煩悶をまのあたりにすると、ITもよけいなお節介が過ぎるのではないかと思わなくもない。
古い時代から、男女の仲ほどむずかしいものはないと歴史や文学が口をすっぱくして語り継いできたわけだが、ここにきても人間はなんら進歩をしていないというか、よりいっそう奇妙な深みにハマっていくのかと懊悩しそうな相貌を呈しているようにも見えた。
気軽に出会えたとしても、気軽にいかないところもあるのが男女の仲というものだ。
が、そうはいっても、「割れても末に逢わん?買わん?とぞ思う」のが恋愛というものであって、その若者には腐らずに励んでもらいたいものだと思った次第である。
で、結局のところ、しどろもどろの挙げ句の果てに、なにをやいわんとしているのかというと、無責任にもほどがある言い回ししかできない、そんな呑み屋の面々に、そもそもそんな話を振ってくるなよ、元からして、それほどたいした恋愛経験なぞ、こちらはハナから持ち合わせていないんだぞ、と、声を大にして言いたかったわけである。