粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

【落語】あたま山/桜ん坊

落語の数ある噺のなかでも、もっともばかばかしく、きわめつけに奇々怪界で、シュールさの極北とでもいえる噺がこの演目となるのではないでしょうか。

 江戸寄席で「あたま山」、上方落語では「桜ん坊」と呼ばれる演題で、このタイトルもじつに意味深です。

短い噺ですが、超現実的な世界観、アクロバティックなスジの展開がぎゅっと濃縮されていて、しかも現代にも教唆を投げかける、じつに含みの多い話でもあります。

 

◾️ あらすじ

さわりはまず、ケチな男が、さくらんぼを食べているところからはじまる。

この男、ケチがすぎて、もったいないからと、さくらんぼのタネまで呑み込む。

すると、そのタネが、どういうわけだか、からだのなかで育って、あたまのてっぺんから芽を出し、さらにすくすくと育って大きな桜の木になる。

やがて花を咲かせ、町中の評判となり、近所の人たちが花見にやってきて、この男のあたまの上でどんちゃん騒ぎをはじめる。

あたまの上に、ひっきりなしに花見客がやってきて、連日連夜、呑めや歌えやと、のべつ幕なし騒いでいるので、うるさくてたまらない。

とうとうあたまにきて、この桜の木を引っこ抜くと、抜いたところに大きな穴ができて、その穴に夕立がふりそそぎ、水が溜まって、こんどは池になる。

すると、鮒だの、鯉だの、魚が棲みつきはじめ、朝から釣り客が訪れはじめる。

わりと釣れるとまたもや評判になって、網を投げ始める者まで出る始末。

さらには、涼みにちょうどいいとばかりに芸者をはべらせて舟遊びと洒落込む輩まで出はじめて、またぞろ人がわんさかおしかけ、どんちゃん騒ぎとなる。

我慢に我慢を重ねたが、うるさくてもう辛抱ならないと、この男、しまいには自分のあたまの上の池に自分の身を投げて、サゲとなる。

 

◾️ 落語のことば補説

▼ さかさおち

古典落語の「落ち/サゲ」にはいくつかのパターンがあり、この噺は「さかさおち」に当てはまる。

ことばのとおり、本スジで話してきたことを最後の最後に逆転させて笑いをとるパターンである。

芸談となるが、この噺をお家芸とした八代目・林家正蔵(彦六)は「花見の場面に「京の四季」を、釣り船の場には「佃」の合方を入れた趣向で聴かせてくれた」そうである(京須偕充『落語名作200席(上)』より)。そして「こういうばかばかしいはなしを聞いていると、誰しも自分の頭の池に身を投げられる筈がないとお思いでしょうが、年寄りに聞くッてぇと、細長いひもを縫う場合、最初は糸目を上にして縫って、縫い上がると物差しをあてがって、一つ宙返りをさせる。すると完全な細ひもになる。理屈はあれと同じで、頭に池があれば、人間がめくれめくれて、みんな池へへえっちまう」(矢野誠一『落語手帖』より)と云っていたそうだ。つまりは裏っ返しであり、噺のスジと生の謳歌?をめくり上げれば、投身自殺にさかさおち、というわけである。

 

◾️ 鑑賞どころ私見

正直、もの凄い噺である。

現実を越えるどころではない、異次元へとぶっ飛びまくった噺であると思う。

なにせ桜の木があたまのてっぺんを突き破るくらいである。

大袈裟でなく、むかしの日本の庶民文化がたしかに育んだ、次元を超越したイマジネーションに、逆にそら恐ろしいまでの叡智を感じてしまう。

 

上方のほうで「桜ん坊」と題しているのは、おそらく「錯乱ぼう」とかけているのだと愚考するが、さくらんぼの種から発展するまいど馬鹿馬鹿しい噺で、おもて向きのスジはそうだとしても、じつは意味深な教唆をさまざまに想起させる噺でもある。

 

あたま山の桜の木は、たとえば漫画の吹き出しのようなものと想像してみたらどうだろう。

あたまのなかを桜色に染めて、おめでたいことばかり考えているのは、人間、昔も今もかわらないということである。

くわえて、あることないこと考えてすぎて、吹き出しの林立状態であるといえまいか。

あたまのなかがうるさくてしょうがないのは、現代の情報化社会のありようそのものではないか。

 

吹き出しを具現化したものといえば、たとえば現在のマスメディアを眺めてみればいい。

連日連夜、ひっきりなしに、お祭り騒ぎをしているといえば、テレビなどがそれに当てはまるだろう。

ニュースに、バラエティにと、どんちゃん騒ぎである。

テレビはオワコンだといわれているが、是非もあらず、じねんと騒ぎ疲れて、そのうち身の投げどころでも考えたくもなろうものではないか。

ネットやSNS界隈の炎上騒ぎだって似たようなものである。

AIも、近い未来のヴァーチャルな世界も、どんちゃん騒ぎの末に、投身自殺と洒落込むのだろうか。

 

人間は一日に3万回、あたまのなかで「思考」すると、どこかで聞いたことがある。

つまりは、どんちゃん騒ぎである。

たとえば仏教では、この3万回の思考をあたまのなかから取り除くことが「悟り」だという。

 この噺を聴いて、静けさのなかに身を投げた、男の気持ちに黙然とする、今日この頃である。

 

◾️ YouTube 視聴

[*2024年4月現在、視聴可能な動画となります]

▼ 音声のみ

・林家正蔵(彦六)[八代目]:https://www.youtube.com/watch?v=qQfQoaQomvU

・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=3mqw_8e1zhY

 

◾️ 参照文献

・矢野誠一『落語手帖』(講談社+α文庫、1994年)

・京須偕充『落語名作200席(上・下)』(角川文庫、2014年)

・榎本滋民 著、京須偕充 編『落語ことば・事柄辞典』(角川文庫、2017年)

・立川志の輔 選/監修、PHP研究所 編『滑稽・人情・艶笑・怪談古典落語100席』(PHP文庫、1997年)