粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

徒長枝

先日、呑み屋で興味深い話を聞いた。

といっても個人的に食指が伸びた話、というだけであって、笑い話や与太話ということではない。

呑み屋というところでは、まあ、おおかたはくだらない話をするものである。

馬鹿っぱなしや下ネタなどを好んでするところが通常ではあるが、ときにはこんな人生に感じ入るような、教訓めいた話もポロッと出てきたりもする。

 

そのとき、たまたま相席したお客が植木職人、庭師、つまりは造園業に従事しておられる方だった。

ということで、酒の呑みすがら、その人から樹木というものに関するいろいろな話をうかがったのだが、ところで「徒長枝」ということばをご存じだろうか。

「とちょうし」と読む。

あてがわれている漢字のとおり、意味も字ヅラのまま、現物も文字どおり「いたずらに長いエダ」というものだそうだ。

不覚にもこれまでの人生で出会ったことのない言葉だったので、へぇーと興味関心をそそられ傾聴していたのだが、この「いたずらに長い枝」というものがどんなものかというと、受け売りとなるが、それにはまず木の剪定(せんてい)の基本というものから紐解いていかねばならない。

 

たとえば自分の家に植っている木が境界線を越えて隣家の敷地まで伸びてしまったシチュエーションを考えてみよう。

このとき、境界線のところで伸びた枝を一箇所、パチンと切ったとする。

すると、どうなるかというと、木というものは切ったところから芽を出し、枝を伸ばすものなのだそうだ。

つまりは切断部のわきっちょから芽を出し、そしてここで登場してくるのが「徒長枝」である。

切ったところから、それまであった枝よりも倍近くにもなる若くて勢いのある、長大な枝が、ムクムクと数ヶ月程度をかけて育っていくそうなのである。

この徒長枝、ほんとうに"ご立派"なものだそうで、おそろしく発育が良く、切り口からそそり立つように直立し、しかも花芽をつけない、ただただ樹形を乱すだけの枝で、 たとえば元の枝が1メートルのものだったならば、代わりに生えてくる徒長枝は1.5〜2メートルにもなるそうだ。

ということで、やはり素人が迂闊に手を出すのはあきらかな粗相しかないのであって、なにも知らずに切ったが最後、数ヶ月後以降にまたぞろ同じ徒労、いやそれ以上の苦労を味わうハメになるというわけである。

そしてこの例のように、素人がやりがちな切り方として、木の枝先のほうばかり剪定し続けるというものがあるそうだ。

これをやるとどうなるかというと、その木は枝先に次ぐ枝先に新たな枝をどんどん伸ばすことになり、外側にばかり葉つけるようになって、幹に近い内側にはいっさい小枝も育たなくなり、葉もつかず、スカスカの状態になってしまうそうだ。

いわば、腕だけが異様に長いヤジロベエのような状態になるという。

これは樹木にとっては一種の奇形であり、きわめて不健全な状態であることはいうまでもない。

ということで、木が生育していく方向を見定め、かつ残すべき枝を見極めて、生育方向から逸れる枝を幹の元のほうで適切に間引いていくことが肝要だという。

つまり、先ほどの例であれば、境界線で切るのではなく、玄人は大胆にも大枝ごと"元から断つ"。

ここに長年の経験や勘どころというものがあるそうで、やはり職人の剪定技術とは深みがあるものだなと感じ入った次第である。

 

ところで、話を聞いていて面白いなと思ったのは、この徒長枝というものが樹木の防衛本能に根差した代物であるという点である。

樹木というものはみずからの全体の発育バランスを保ちながら成長する。

すなわち、全体的に、まんべんなく"拡大"、成長していくわけだが、ところが、なんらかの外的要因、たとえば強風や積雪、人為の切断などによって枝が折れ、欠損部が生じたとすると、そこに余所で使うはずだった成長エネルギーを注ぎ込んでリカバリーしようとする。

徒長枝とはつまり、緊急措置で生じた、局所に過剰なエネルギーが供給されて長大化した枝というわけだ。

そして要するに、こうやって樹木は樹形バランスを崩していくわけだが、だが、考えてみてほしい。

木というものをイメージするとき、たいていの人が、二等辺三角形に一本棒を足した模式図的な姿を思い浮かべると思う。

だが、これはじつは、というか当然のことながら、"不自然なカタチ"なのだ。

樹木はもちろん、さまざまな生育条件のなかでそれぞれに根を張り、枝を伸ばし、葉を広げるわけだから、きれいな三角形になるはずがない。

そもそも樹木は複数の枝先を太陽に向かって伸ばし、葉の表面を日光に向けて育っていく、ある種の"ワイヤー状(ツル、ツタ状)"のものだと思ったほうが実状に近い。

ならば単純な日照条件によっても、周囲の建物などがつくる影を避けて迂回しようとするのだから、模式図からは遠く離れたフォルムになるのは必定である。

天然の森や林では当然、木々が隣接しているわけだから、日照の取りあいとなり、単純な三角形などあろうはずもない。

そもそも徒長枝を残した変化のあり様だって、いびつに見られようとも、樹木にとっては樹形のひとつのあり方なのだ。

ところが人間側の理想という手前勝手な都合で、悲しいかな、ねじ曲げられることになる。

つまりは無理矢理、強引に三角形にしようとするものだから、切るほどに、 "矯正 "しようとするほどに樹木は徒長枝を伸ばし、のたうちまわるように"暴れる"ことになる。

家の近所を歩いてみると、至るところでそういった木々を見かけるだろう。

暴れまわるのを無理やり押さえつけられたかのような切られ方をした木々、ともすれば、それで禿げ上がったかのように枝を落とされ続けた木さえ見かけることもあるだろう。

人間は樹木をまるで仇のようにあつかっていると、その職人さんが語っていたが、たしかに樹木の側からしてみたら、たまったもんじゃない不条理であることには間違いない。

 

ところで、そもそも日本の庭というものは、山谷の勝景を切り取って家庭で楽しむためのものだったそうだ。

だから"自然風"の、自然の有り様をそのまま切り取ってきたような庭の景観を好み、剪定技術もそのように発達してきたそうである。

一方で、広大な森を開墾してきた歴史を持つヨーロッパの庭は、自然を征服・制御するかのような刈り込み型の整形がメインに配置されるそうである。

いにしえの西洋貴族の大きな邸宅をかこむ、まさにバリカンで刈り込んだ丸、三角、四角の樹形──、これはもともとの日本の庭にはなかったもののようだ。

ともあれ、これは文化の違いというものであって、どちらが良い悪いではないことはお断りしておくが、それにしても現代の日本の住宅事情からすれば、"自然風"はもとより、訳のわからない和洋折衷、もとい、呆れるほどの和洋混在ぶりを通り越して、ほんとうに庭を必要としているのだろうかと思わんばかりの木々草花の扱いようともいえる、ともすれば木々たちの阿鼻叫喚の様相を呈している庭も少なくないように見受けられる。

そのくせ、新築物件のイメージ図などには必ずといっていいほど緑を添えたものばかりが並び、大都会のど真ん中にそびえ立つ高層ビルの完成予想図にすら、なにかしらの木々が植った理想図が散見されるが、はっきり言って、そこに描かれた木々は人間のイメージや意図とは異なる原理で生きるものであることを、しかと思い知らなければならない。

そこに木を植えることは、けっして気軽な添えもののような事柄ではないのだ。

邪魔になったら伐り倒せばいい、そんな身も蓋もないことを考えながら木を植えようとするのならば、いっそのこと木を植えないことのほうがはるかに健全で自然の理に叶う。

そこに木を植えるのならば、そこで「その木と共に生きていく」というくらいの覚悟と責任が必要であるように、杯をあおる職人さんの話を聞いていて思った次第である。

 

さて。

樹木の在り様というものは、古くから人の生涯や人間社会のあらましなどについての喩えや教訓などの引き合いに出されることが多いもののひとつである。

人の一生においては、外向的に、社会と交わり活発に働きかける時期もあれば、内向的に、己の内面をじっくりと見つめなおすという時期もあるわけだが、これを樹木の生育になぞらえることがある。

春から夏にかけて花をつけ葉をしげらせる在り様は人の社会での活力あふれる活動を、秋から冬にかけて葉を落とし枝だけの裸の姿になり、対してじつはこの時期に地中で根を広く深く張りめぐらせる在り様は人の内面の涵養を連想させる時期として、人間は樹木の生の営みと成長とを人の在り方として模してきた。

自分の人生のなかで振るわない、不遇と思われる時期であっても、それはこれ、木が根を張りめぐらせるように、地道にじっくり自身の内面を掘り下げる成長の時期、心の滋養を蓄えていく時期だと思い定めることは、大地に強固に根を張ってブレることのない樹木のありようをそのまま想起させるものといえるだろう。

人間社会のあり方についてもそうだ。

すでにして、樹形(図)そのものが、社会とシステムそのものをあらわしているといえる。あるいは、転じて社会・経済・文化の成長の仕方そのものだといってもいい。

人間社会の諸々の活動というものは、一本の樹木の成長と拡大を彷彿とさせるような、苗木が根を張って土中から水と養分を吸い上げ(投資)、やがて成木となり花を咲かせ(起業)、枝と葉を広げてエネルギーを蓄え(営業)、果樹であるならば収穫物を実らせ、その成果物を得るという営み(収益)を繰り返している。

 

ところで、ここで少々余談となるが、「隔年結果」ということばをご存知だろうか。

はじめて聞き知ったことなので驚いたのだが、果樹が果実を実らせるのは、じつは毎年ではなく"隔年"なのだそうで、たとえば今年、実をつけた果樹は、来年は実をつけずに、再来年に結果するのだという。

なぜかというと、これは成長と生殖を一年おきに交互に繰り返すためで、つまりは一年を通して蓄えたエネルギーをその年に成長(枝を伸ばす)に振り分けるのか、生殖(実をつける)に振り分けるのか、ということだそうで、なるほど、そう聞くと、じつに理にかなった生理現象だと納得できる。

さらには、この生態をより正確に言明すると、この現象は一本の樹木のなかのそれぞれの枝ごとで"成り分け"されるそうである。

たとえば成木になる以前の若木であるならば、成長にエネルギーを全振りするため、木全体で実をつけないこともあるそうなのだが、成長するにしたがって、実をつける枝と実をつけない枝が分かれていくようになり、そしてそれらが毎年入れ替えで交互に結実と成長をくり返しはじめる。

成熟して結果する枝と成長に走る枝とで役割が分化して、一本の木のなかで混在するようになるわけだ。

なので、一見すると毎年実をつけているように見える木も、じつは枝単位で観察すると「隔年結果」が認められるということなのだが、個人的にこの話は目から鱗であった。

畢竟、この事柄ひとつとってみても、人間、たとえあることで成果を得られなかったとしても、別の側面に目を転じれば、別のなんらかの成果を得ているものだという教訓を引き出せることもできるし、「隔年」というのも、なぜだか腑に落ちるライフ・サイクルのあらましがうかがえるようで、なかなかに面白い樹木の生態だなと感心してしまったのだが、いかがだろうか。

 

脱線をくり返して申し訳ないが、それにしても、そんな人の典範となるような樹木のあり様のなかで、最初の話に戻るが、「徒長枝」という存在があること自体、とても面白く感じられて、いわゆる"突出"した存在、突き抜けた存在というものが、自然界の現象として、一個の樹木の生理・生態として存在するというのが、やはり興味をひくわけである。

徒長枝というのは、全体のまとまりのなかからは飛び出てしまう存在だから、まま、折れやすいし、折られやすい。

「出る杭は打たれる」ではないが、突出した枝というものはやはり周囲の環境によって淘汰の対象とされやすいのは道理であって、それでも折られては伸ばし、折られては伸ばし、としていくさまは強靭な生命力を感じさせると同時に、一方で、やはりたび重なる風雪や人為的な切断によって発芽が止まってしまうということはありうるそうなので、徒長枝という存在と事象の背景に、収まるべきところに物事は収まるという摂理も暗示されているというわけだ。

しかしながら、それでも、である。

厳しい自然環境のなかで結果的に残った徒長枝、残ることを許された徒長枝は、その後のその樹木の樹形を牽引していくような大枝へと進化するという。

徒長枝も年数を経れば、ほかの枝と同じように機能し、その徒長枝が織り込まれたカタチで、その木は見事な樹形を形成するのである。

腕の立つ植木職人の剪定においても、あえて徒長枝を残すことで、その後、数年かけて樹形を整えてやるということもするそうだ。

突出しすぎたことで、一見すると、無用、不用の長物とみなされる徒長枝にも、れっきとした意味があるわけである。

 

──と、酒場でそんな話を交わしながら、なるほどと感じ入っていると、ふとBGMのロックの曲が耳に舞い込んできた。

若い頃、夢中になってよく聴いたバンドのもので、懐かしさが去来するとともに、これを耳にして次のような思いも湧いた次第である。

 

自分が若い頃には、このバンドのような、良い意味で"突き抜けたバカ"が多くいたものである。

それこそ、徒長枝のように尖って、突き抜けようとして、奇を衒って、羽目を外して、内に抱えたエネルギーをどうやって発散すればよいのかわからずに途方に暮れながらも、なにもせずにはいられないような、そんな考えなしの、つまりは有象無象の"バカ"どもが周囲に沢山いたように思う。

そして、それが面白かった。

そんな正しく真面目な"バカ"どもが、なにかしら"やらかす"ことほど、見ていて気持ちのいい、面白いことはなかったように思う。

音楽でも、芸術でも、他のどんな分野でもいいが、そんな、周囲におかまいなしにグイグイ"独走"するような存在が、あらたな"独創性"の芽を垣間見せてくれたような気がするのだ。

しかるに、ここ最近、そのような存在にお目にかかれずに、絶えて久しいように感ずる。

世の中全体が「賢く」「手堅く」なっているきらいを感じるのだが、そういった「スマートさ」にどこか「つまらなさ/詰まらなさ」を感じてしまうのは世代的ノスタルジーが強すぎるからだろうか。

徒長枝の話をうかがいながら、心のどこかで、どんな分野でもいい、"突き抜けたバカ"の登場を待望する、そんな果敢無い観照をおぼえた次第である。