呑み屋でこんな話を聞いた。
数年前からソロ・キャンプを趣味とするお客がいて話をしたのだが、最初のうちはいろいろなキャンプ場へと足繁く通っていたが、最近はほぼ一択、いちばん気に入っている、とあるキャンプ場にしか行かなくなったという。
この趣味にも小慣れてきて、当初のような意気揚々とした気分も落ち着き、まあ、落としどころとして好きなキャンプをゆったり楽しむのに煩雑でもない、手軽な場所としてそこ一択となったのかと尋ねたところ、そういうわけでもないようで、この人は次のように云っていた。
なぜか、そのキャンプ場に"地縁"のようなものを感じるのだという。
他のキャンプ場にいろいろと行ってみたのはむしろ前哨のようなもので、あるとき、その一択のキャンプ場と他所を比較している自分に気がついたそうだ。
そこで「ああ、なぜだかこの場所は、俺の"心地の着く"場所なのだな」と得心したという。
この感覚はなんなのでしょうねと不思議がっていた。
そこにテントを張って腰を落ち着けると、心底ホッと安堵するという。
へぇーと相槌を打ちつつも、自分にそんな地縁のような感覚があるのか不明瞭だったのだが、もしかしたら自分にもそんな場所があるのかもしれないと望洋に想像をはためかせていると、隣にいた別の客もその話に乗っかってきた。
曰く、こちらの人の場合は、とある場所にあるトイレがそうだという。
あまり教えたくないのですがと前置きして、職場近くの、とある駅ビルにある、なぜだかあまり人の立ち寄らないエリアにある従業員兼用のトイレが、自分にとってはそれに当たるかもしれないと話してくれた。
とにかく穴場のようで、周囲の雑踏があるにもかかわらず、どういうわけだかそのトイレだけはいつ行っても利用者がほとんど来ないそうだ。
おそらく従業員であろう利用者がごくマレに用を足しにくるだけで、ただし、その人がそこに立ち寄るときには、ほとんどの場合、人に遭遇することがないという。
そこのトイレだけがぽっかりと静寂につつまれているようで、まるで時間が止まっているかのようとのこと。
仕事に疲れたときに、とくに用を足さないときでも、ホッと一息つくためにそこの個室にこもることもあるという。
これもある種の地縁ということになるのだろうか。
人と「場所」の不思議な関係性に興味深く耳を欹(そばだ)てた次第である。
人間だれしもホッと安堵する場所を挙げるというのならば、自宅ということになるのではないかと思いもしたが、こういった話を聞くと、どうやらそうでもないらしい。
思うに、そういった「場所」との稀有の関係性を感じ取るためには、両者の話に共通するような、ある種の"孤独"であることが条件になるのかもしれない。
自分だけの特別な場所とは、社会的な虚飾を脱ぎ捨てられる、自分自身に立ち返られる場所なのであろうことは、ここでご高説をたれるまでもない。
それにしても、そういった場所を持っているというのは、その人の幸せのひとつに数えられるものなのかもしれないと思う。
で。
この話題、酒肴として合い口のいい話だったらしく、その場に居合わせた呑み屋の相席衆で自分にとって落ち着ける場所はどこかという話し合いになった。
まずはこの呑み屋でしょ、と笑いながら、それぞれ思い思いにいろいろな場所を挙げていたが、面白いと思ったのが、「近所のスーパー」と答えた人がいた。
たしかに、とその場にいた皆も納得していたのだが、これならわが身にも覚えがある。
たしかに"近所のスーパー"は、どこへ行っても、なぜだか落ち着く気がする。
この場合、「住んでいる家の近く」「近郊の」「地元の」だけではない。
それ以外でも、たとえば旅行に行った先の"近所のスーパー"であったとしても、立ち寄ってみると、どういうわけだかホッとするよね、と皆がうなずいていた。
もっとも、この場合の"近所のスーパー"は、多種多様のテナントが乗り入れするような大型店舗ではない。
あくまでも、そこの地元の人が利用する生活密着型の、食品と生活雑貨のみを取り扱った中小規模の店舗である。
たとえば自分の場合、以前、海外旅行でタイに行ったことがあるのだが、そのとき立ち寄った小規模の「近所のスーパー」でも、日本にいるときと同じようなホッと安堵した感覚を味わったことがあった。
それを話したら、みな、わかる〜と賛同してくれたのだが、国内外問わず、土地それぞれの生活臭の違いはあれども、"近所"というところになにやら安堵する一因があるのかもしれない。
と、ウンウン頷いていたら。
「ところでさ」
「なによ?」
「おまえんチの近くに古いスーパーあるじゃん。あそこ行く?」
「もちろん、よく行くよ。ウチからいちばん近いスーパーだし、常連だな。ウチのカミさんなんかは、ほぼ毎日行ってるんじゃないの」
「あのさ」
「だから、なによ?」
「あそこのスーパー、なんであんなに"寒い"の?」
そうなのである。
ウチの最寄りのスーパーは、どうしたわけだか、いつ行ってもクーラーが効きすぎていて猛烈に寒い。
自分の体感では入店後、もって10分。5分もいれば震え出すほどの強烈な冷房の効き具合である。
多少、大袈裟に言わせてもらっているところもあるが、実際、常連客もそれを承知でその店を利用しているフシがある。
というのも、常連ならば必ず防寒着を持参して買い物しているので、不用意・無策な一見さんが来ると一発でわかるほどである。
これが冬ならまだいいが、夏、たとえば猛暑日などに防寒着持参で買い物に来る客たちを想像してみてほしい。
どう考えても、おかしな空調ぶりである。
ウチのカミさんも年間を通してマイカーに薄手のダウンジャケットを常備していて、それもこれ、すべてはこの極寒スーパーを利用するためなのである。
従業員の皆さんは当然のようにかなり厚手のジャンパーを着用しているが、なぜそこまで寒くさせるのか、意味がわからない冷え込みといってよい。
もちろん生鮮食品を扱っている関係上、売り物にアシが出るようなことがあってはならないので、そのための空調であることはよくわかる。
回転率を上げるためのなんらかの画策かと邪推したくもなるが、それにしてもあまりにあまりある寒さとしかいいようがない。
直接聞いたことはないが、近所の人の話では、以前のあるときに空調が故障して以来、なぜかそのまま放置プレイ状態だそうで、調節がバカになり手がつけられないまま既成事実化したそうである。
そんなことはないだろうと思いつつ、その調節も修理できるだろと思いつつも、それにしても、甘んじてその現実を受けとめ、店員ならびに地元の利用客がこぞって、粛々とその環境下で経済活動をおこないつづけていることがなんとなく可笑しい。
みんなして、「ま、いっか」と思っているわけである。
ここいらへんのユルさ、グダグダ加減が先ほどのホッとする場所、安堵する場所として認定されるべき加点要素であると思われるが、それにしても、なにせ油断しているとガタガタ震えるほどの寒さである。
店の雰囲気的には、ほっこりする。だがしかし、寒い。
震えるほど冷えるが、でもなぜだか安心するような空気が流れている。
この微妙な"安定"感。
これをどう考えればいいのか、話に興じた呑み屋の相席衆であたまを唸らせた次第である。
居心地がいいのに、居たたまれない。
居たたまれないのに、なぜか安堵する場所。
この例に見られる駄々っ子のようなアンビバレントさを鑑みるに、抽象的なもの言いになるが、たんなる「場所」というものにも、ある種の"性格"が存在するのかもしれない。
人と場所とのえにしにもそういった性格から起因する相性があって、そこになんだか笑える要素があるのならば、その場を行き交うことにも良いほうの意味で"浮足立つ"ような面白さが生じてくる。
意識しないと気がつかないだけで、意外と身近にそういう場所はままあって、それを見つけることが人生を楽しくする秘訣なのかもしれない。