落語のなかに「首提灯」という噺がある。
酔っぱらいが夜道ですれ違った侍に悪態をついたことから辻斬りに遭い、あまりにも鮮やかに首を斬られたものだから、それに気づかずに、てんやわんやとする話だ。
もとい、最初のうちは斬られたことすら気づかずに、酔っぱらった気持ちよさで、それこそ鼻歌混じりで夜道を流しているのだが、だんだんと首が回らないことに感づきはじめるところにこの噺のミソがある。
ここでサゲまで披露するのは野暮なので割愛するが、この話を聴いていると、むかしもいまも酔っぱらいの始末の追えなさは変わらないのだなと思ったりする。
人ごとのように、えらそうに言っているが、ひるがえるに、酔っぱらって迷惑千万なことは、わが身にも覚えがある。
首はすっぱ抜かれなかったが、肘なら曲がったことがある。
そんなくだらない話をしてみたい。
若い時分の話である。
行きつけの呑み屋の常連同士でなぜか、バッティングセンターに行くことが流行るという出来事があった。
その呑み屋の近所に、深夜でも営業しているところがあって、きっかけは忘れたが、ともかく酔客どもが呑んで酔っぱらった勢いとウサばらしを兼ねてバットを振りまわす、ということをやっていた。
ここで字ヅラだけみると怖い気もするが、安心してほしい。
酔ってるとはいえ、そこは大人。
れっきとした紳士的な目的があった。
どういうことかというと、そのバッティングセンターにホームラン賞というものがあって、打球が飛ぶ先のネットの一部にホームランゾーンなるものが設置されていて、そこに球を入れると、景品として手拭いがもらえるのである。
おそらく最初、常連客のだれかが、その手拭いを店で自慢したのだろう。
それでまわりに火がつき、来る客、来る客に伝染していった。
手拭いというのがよかった。
バットとボールの和柄がイカした感じで、センスを感じさせる逸品である。
さらには、「ホームラン打って、汗ぬぐってください」という風情も、なかなかどうして、バッティングセンターの粋な計らいを感じさせるようで、いいではないか。
それが酔客どもの琴線に触れた。
そんなわけで、あるときから、常連客が目の色かえて、この手拭いを欲しがりはじめたのである。
愚にもつかないことに躍起になるのが酔狂というもの。
そして、酔っぱらいの始末の追えなさもここから始まる。
当然、だれが最初に手拭いを奪取するかの争奪戦が始まったのだが、けっこう早い段階で元高校球児の客が手拭いをぶら下げて店にやってきた。
が、よくよく話を聞いてみると、シラフで獲ってきたとぬかす。
「シラフで獲ってくることのどこがおもしろいってんだ、呑んでから行け、呑んでから」と誰かが叫んで、そこからはもう、「酔うのが先か、打つのが先か」という泥沼の様相を呈するのである。
まったくもって始末に追えないが、可哀想なのはバッティングセンターのほうである。
ベロベロなうえに目の色かえた酔客が陸続と押し寄せ、打席に立ってバットを振っているのか、バットに振られているのかさえわからない、ふらふらの状態で、球速の違うブースそれぞれを横ならびで占拠している異様な光景である。
挙げ句の果てに、球を飛ばすのではなく、目を飛ばしながら盛大にキラキラをぶちまける、迷惑なことこの上ない粗相をしでかす客がいるかと思えば、向こうのほうでは、ベンチに座って将軍のようにバットを正面に据え、威風堂々と黙念としているかと思いきや、じつは寝ている、という客がいたり、そこいらへんに転がって、ただふつうに寝ている、という客もいたりと、もう泣くしかない状況だったと思う。
呑み屋をやっている大将らの弁では、客に寝られるのがいちばんキツいそうである。
ましてや、酒も出していない、スポーツマンシップをモットーとし、爽やかに汗を流すためのバッティングセンターで「寝る」とは、いったいどういう了見なのか。
それでも、当時の、あのバッティングセンターは優しかった。
いまだったら、いや、いまじゃなくても出禁確定案件だと思うが、扉のところに「酔いを冷ましてから、打席にお立ちください」という貼り紙がしてあった。
涙が出そうである。
そんな博愛のバッティングセンターだったが、なかなかどうして、それだけじゃ、商売にならない。
だが、流石である。
そこは、繁華街の片隅にしっかりと根を張る老舗のしたたかさがあった。
その懐に、じつは狡猾な一面も持ち合わせていたのである。
(つづく)