先日、歯科の待合室で、眼鏡をかけながら、メガネ、メガネと、自分の眼鏡を探している年配の人を見かけた。
まあ、よくある話である。
今日は、こういう話を思いつくままに挙げてみようと思う。
ちなみに、たった今も、似たような事例が発生した。
どういうことかというと、このブログで文を打ち込んでいく際に、自分の文章の癖なのか、「話」ということばを多用する。
これをよく「なはし」と入力し間違えて、「那覇市」と変換されるのだが、そのときたまに、あれ、俺はいま、沖縄の話なんてしてたっけ、とトンチンカンなことを、ぼぉっと考えることがある。
つまりは、こういうとぼけた、ピンスポット痴呆的な溢れ話を以下に挙げてみたい。
──夏の盛りのある日、なにかの用事でクルマで街まで出かけて、暑い、暑いと汗をダラダラかきながら、ほうほうのていで家へと帰り着き、こんなに汗をかくのはどこかおかしい、自分はなんらかの身体の不調があるのではないかと心配になっていると、結局、クルマで出かけたことを忘れてた、クルマを忘れて歩いて家に帰ってきていた。
とぼけた話である。
これは演劇人で作家の中島らもさんが、イベント寄席の余興で話されていた枕のなかの挿話である。
「クルマを忘れてきたんですね」というひと言がおかしかった。
──それまで電話で応対していた新規の取引先と会食することになり、出先で商談をまとめ、その取引先に、それでは近いうちに御社にうかがいますと言ってその日はお開きになった。店を出て、客と別れて暫くした後に、突然の腹痛と下痢にみまわれて、周辺のデパートやビルのトイレにしらみつぶしに突撃するも、すべて使用中。冷や汗をかきながら、ようやく飛び込めた便所があったのが、その取引先が入るビルだった。しかも、先ほどの客とばったり会ってしまい、近いうちどころか、もう来たのかよ、とツッコまれた間の悪さ。
これは、いつだったか呑み屋で呑み仲間から聞いた話である。
ピンスポット的痴呆からはズレるかもしれないが、思いもよらなかった顛末という点で、ここで採用させてもらった。
その後の取引も上々だったらしく、うんがつく、とはこういうことを言うのかもしれない(本人も談)。
──電車で寝てしまい、降りるはずの駅を寝過ごしたものの、電車が折り返していたようで、返しの電車のなかで再度、降りるはずの駅に到着。そこでパッと目が醒めて、閉まる扉をすり抜けて飛び降りたものの、あれ、なんで上りのホームにいるんだっけ、と首をかしげた。
これは友人に聞いた話である。
ミラクルである。
首をかしげるあたりが、おかしい。
──正月の書き初めで「禁煙」と筆をすべらせて、出来の良さに満足して、無意識に一服。
これは、ほっこりと笑える。
──雨の日に、室内の観葉植物に水遣りをする。
これは、ぼけた話ではなく、どちらかというと、ピントがぼやけた話ということになるのだろうか。
その鉢植えを外に出せばいいものを、と思ってしまう。
──太鼓の達人というゲームがめちゃくちゃ上手いのに、太鼓を叩けない、叩かない。
ゲームを上達させるくらいだったら、本物をやればいいのにと思ってしまう。
──エアギター。
そんなにギターが弾きたいのなら、本物をやればいいのにと思ってしまう。
が、こちらはこれで、いち芸の域まで進化しているので、面白いので許す。
──キャンプにいって、テントにこもって携帯用ゲーム機でビデオゲームをする子どもたち。
野外である意味がない。
いったい、なにをしに行っているのか。
──自然の絶景を目の前にしながら、携帯やカメラのファインダー画面ばかりを食い入るように見る人たち。
大人も似たようなものである。
結局のところ、人間だれしも、日常的に、どこかボケているのである。
というか、人間、そこまで合理的、合目的的に生きているのだろうかとも思う。
肩肘張って、こわばって、肩の力の抜きどころがわからないと日々を緊張して生きている人もいるかもしれないが、そう思い詰めていようとも、思いの外、思いの余白部分というのはあるものである。
もともと人間は、こういう恍けた生き物なのだと、最近、つくづく思うようになった。
補記:心の光と書いて「とぼける」と読みます。なかなかに、意味深い。