粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

寝ざま

睡眠の加減というものがむずかしい。

 

仕事が夜遅くに終わることも多く、帰宅して、深夜に寝床につくということもしばしばである。

翌日が、ではなく当日になってしまうが、休みの日となっている場合など、夕方まで寝てしまうときがある。

ところが、そういうときの目覚めた後の身体の疲労感がハンパなく気だるい、ということがままあって、そんなときに自分で自分を勘ぐることがある。

 

これは逆に、体力を使って寝ているのではないか、と思うのだ。

 

ある年齢を超えてから、そう思うようになった。

歳をとると、ふとんにくるまる幸福についても再考の余地が出てくるのかと思わされた次第である。

 

断り書きをしておくと、ここで述べることはあくまでも個人の体感であり感想であって、睡眠ほど個人差が出るものはないと思われるので、ご注意されたい。

 

ともすれ、こちらはもともと、どちらかというとロングスリーパー体質である。

人生の荒波を睡眠によって乗り越えてきたといってもいいほど、自分にとって睡眠は重要なものであると認識している。

寝ればなんとかなる、と思ってこれまで生きてきたフシがあるし、寝ないとヤバいという観念が頭のどこかにつねにある性格持ちでもある。

寝ることで何事も仕切り直す、という発想が歳を重ねるにつれて根強くなってきたといってもいい。

それがここにきて、「寝過ぎ」について再考を迫られることになるとは思いもよらなかった。

 

自分の体感では、体力を削って寝ている。

これをどう考えればよいのか。

その答えを暗中模索している。

 

人間の平均睡眠時間というのが8時間であるというのが一般的な見解としてある。

これを基準にするならば、自分の若い頃は、それでは足りないという印象を持っていた。

これも当時の体感だが、10時間以上は寝たい、と思っていた。

ところが最近では、8時間でも多いのではないか、と思い始めている。

というのは、これも歳のせいだろうか、8時間もいかずに、なぜか勝手に目が覚めるときがあるからだ。

 

これが不思議だ。

これは、むかし起きていた時間帯の痕跡なのか、とふと思ったこともある。

以前の仕事の関係で、朝5時に起きなければならないことがあって、もちろん現在はその時間に起きる必要はまったくないのだけれども、どれだけ深夜遅くに寝たとしても、一旦、その時間帯に目が醒めることもあったりする。

なぜだか、わからない。

まぁ、それだけ二度寝の僥倖にあずかることができたと思えばいいだけのことなのかもしれないが、それにしても睡眠の謎は深まるばかりである。

 

謎といえば、自分などから見たら、ショートスリーパーの人など、その典型である。

若い頃は、うらやましいと思ったこともある。

さらにうらやましい、これは人間が持つさまざまな才能のなかでもトップクラスにうらやましい才能ではないかと思っていたのが、「どこでも即座に寝れる」という才能である。

以前の職場に、そういう人がいた。

どんなシチュエーションでも、その人はすっと寝てしまうのだ。

その見事さに感じ入ったものである。

仕事ばかりではなく、旅行や、ふだんの生活のなかでも、ちょっとした時間に、少しでも寝ておきたいといった場面はままあるだろう。

そういうときに、パッと寝て、パッと目覚めることができる。

人間が起きて活動するなかで、その間隙をぬって自由自在に寝れるというのは、そのたびにリフレッシュされることになり、これほどうらやましい才能はないだろう。

神さまに、なんでもいいからひとつ、なんらかの才能を授かることができるというイベントがもしあるのならば、自分はこれを選ぶと思う。

 

まあ、それは置いといて、睡眠の質というものが、人生の質のようなものを決定するというのは、たしかなことのような気がする。

人生の3分の1は寝て過ごすわけなのだから、杜撰な睡眠が残りの3分の2に影響を与えない道理はない。

生きざま、ならぬ、「寝ざま」というのは、案外とあなどれない人間の命題であり、寝ざまのいさぎよい人というのは、いさぎよい人生を送るのではないかと思ったりもする。

が、睡眠は謎であり、睡眠のことを完全に掌握してはいない人間が、これを成すのはむずかしいとも思ってしまう。

 

睡眠について、もっと真剣に向き合う必要があると思う、今日この頃である。