粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

表か裏か

近所に美味いナポリタンを食わせる喫茶店がある。

たまにふと思い出しては無性に食いたくなる味で、先日、ぽかりと空いた時間ができたので、舌先に誘われるまま、ふらりと立ち寄ってみた。

最近は若者のあいだで昭和レトロ風というものが流行っているそうだが、その喫茶店はそれを地でいく雰囲気の店で、というか昔からあるので、なんの飾り立てもせずにそのままなつくりの店なわけだが、まあ、そこにホッと一息、腰を落ち着けたわけだ。

この店のナポリタン、鉄板皿に小高くに盛られており、ジュージューと音を立てながら席までやってくる。

その日もかぶりつき、大満足であった。

で、心地好い充足感に身をゆだねながらアイスコーヒーで〆めて、会計を済ませて、家まで帰ってきた。

 

さて。

本題はここからである。

食ってるときには気がつかなかったのだが、帰って家着に着替えようとしたところ、なぜか内側のシャツにオレンジ色のシミがついていることに気がつく。

小さな点が肌着の襟元に2、3、付着していた。

まったくもって、ノーマークだった。

ナポリタンというものは服に染みをつける代表選手のような一品だが、不覚にも油断していた。

むさぼったツケである。

どこで飛び跳ねたのだろう?

それほど目立つものでもないように思いもしたが、こういった瑕疵はいちど気になりだすと、どこまでも執拗にその存在をアピールしてくる。

外着ではなかったことが不幸中の幸いだったのかもしれないが、襟元のインナーが露出する三角形の部分にピンスポットで飛んでくるところにあざとさを感じて、不愉快度数もうなぎ登りである。

舌打ちしつつ、洗濯物に出そうとしたときに、はたと立ち止まった。

 

その日は、うららかな小春日和と言おうか、それまでの肌寒さからひるがえって気温が昇った日だった。

じんわりと汗ばむ陽気で、実際、外を歩いていて多少の汗もかいた。

加えて、喫茶店でナポリタンをかき込んでいた際にも、ハフハフと汗をかいていた。

つまり、シャツが汗を吸っている。

そこで日頃からつねづね感じている「洗濯物問題」が懸案として再浮上してきたのだ。

 

洗濯物問題とはなにか。

洗濯機に服をほおり込むときに、オモテのまま入れるのか、それともウラっ返して入れるのか、という問題である。

オモテ面を洗うのか、ウラ面を洗うのか、この問題に長年つきまとわれ、悩まされてきた。

たとえば、先ほどのナポリタンの目立つシミといった、外側から付着したわかりやすい汚れならば、オモテ面一択だろう。

いつだったか、洗剤のテレビCMで、シミや汚れ箇所に原液を直接ぬり付けて洗うタイプの商品が宣伝されていたが、つまりはそういうことだろう。

一方で、目立たない汚れのケースなら、どうだろうか。

たとえば夏の猛暑日に汗をダラダラかいた場合には、下着や肌着などはウラっ返して洗いたいものである。

だが、オモテとウラ、両方から攻められた今回のケースのような場合に、どちらの面を外側にするのか、懊悩するのだ。

いつも、ここで、ピタッと停止するわけである。

こういう場合、どちらにすればいいのか、ほんとうに困ってしまう。

 

この問題について少々、整理しておくと、平素、洗濯物を出すときには、自分のなかで「基準」がある。

「汚れた面を外側にする」というものだ。

服というものは、日常生活で着ているぶんには、それほど、あからさまに汚れるというものでもないだろうが、そこは"気持ちの問題"で、次のようなマイ・ルールに準拠して、粛々と洗濯物を出している。

──それほど目立つ汚れがない普段は、外着はオモテ面を外側に、下着・肌着はウラ面を外側にして洗濯物に出す。

──目立つ汚れ・シミがあるときは、その面を外側に露出させて洗濯物に出す。

このマイ・ルールをかたくなに守り続けている。

 

そして、このマイ・ルールに対する洗濯物問題としていちばん悩まされるのが、くつ下だ。

こちらは、臭い、という方面からの問題も浮上する。

あの臭いはワレからのものなのか、靴の側からのものなのか、よくわからなくなるときがあるのだ。

落としどころとしては、最近、同じ靴ばかりを履いているなと思い立ったときにはオモテにして洗濯物に出し、おろしたての靴や靴の履き替えをよくする時期にはウラにして出す、ということにしている。

だが、このくつ下も、オモテとウラ、両方から攻められること頻発のごとしで、先ほどのケースと同様に、どちらを外側にして出すか、はっきりいって、いまだ正解を得ないままでいる。

 

そして今回、この問題に決着をつけるべく、一歩前へと踏み出してみた。

すなわち、ウチにあった洗剤の説明書きをしかと読んでみることにしたのだ。

すると、洗濯のあらまし、メカニズムとは次のようなものであると自覚するに至った。

 

服とはまず、おおむね糸の集合体であると捉えることが前提となる。

ということで、洗濯という行為は、糸を水に浸けることによって、糸から汚れを分離する、ということが大枠をなしている。

洗濯機が水をかき回したり、現在はもっぱらやらなくなったが、手洗いで服をゴシゴシとすることは、汚れをこそぎ落としているというよりは、むしろ水の浸食を手助けするようなものだということが、まずわかった。

洗剤は水に浸透することによって、水といっしょに糸から汚れを分離することをサポートをしたり、分離した汚れが再付着しないよう、双方に防壁膜を形成する役割を果たす。

そして、ここでのミソは、糸の「物性」にある。

糸というものは、服の形状へと編み上げられることによって「内側/外側」という概念が出来上がるだけであって、糸そのものは、どこまでいっても糸のままである。

そして単純に、洗濯という運動は糸の物性それ自体に作用するだけであって、糸が水にヒタされるのであれば、ありていにいって服のウラ、オモテは関係ない。

洗剤の説明書きが相手取っていたのは、小癪にもこちらを置き去りにして、繊維質がどういうものであるのか、というほうで、長年抱いていた純心な疑問を嘲笑うかのようにスルーしていた。

ちきしょう。

結論。

オモテ、ウラ、どっちでもいい、というわけである。

いつだったか、洗剤のテレビCMで、シミや汚れ箇所に原液を直接ぬり付けて洗うタイプの商品が宣伝されていたとリフレインするが、あれはオモテ、ウラの問題ではなく、あくまでも汚れと糸そのものに洗剤を直接行使で添えるためのものであって、オモテから塗ろうが、ウラから塗ろうが、結果は同じということなのだろう。

勘違いにもほどがある、とはこのことである。

 

それにしても、オレの長年の懊悩に費やしてきた時間を返してくれと言いたくなったが、さもありなんと問題の氷解を歓迎すべきときがおとずれたのかもしれない。

刮目せよ。

これからはオモテもウラも関係ない。

ただそのまま、脱いだそのまま、洗濯物に出せばいい。

なるほど、そういうことか。そうだよな、うん、そういうことだよ……

 

と、そうは問屋が卸さなかった。

腑に落ちない。

しつこくも、これは"気持ちの問題"である。

洗濯というものが原理的にそういうものであったとしても、汚れた"面"を"外側"に露出して洗いたい。

それが人情というものなのではないか。

これまで連綿と築きあげてきたマイ・ルール。

崩せない。

これは、どうあっても崩せない。

 

このマイ・ルールを確立するためには苦節の道のりがあった。

じつは、ウチのカミさんは、オモテ面一択派で、過去にこの懸案で一悶着あった。

理由を問えば、乾いた洗濯物をたたむとき、ウラだとオモテに返す手間がかかるから面倒くさい、というものだった。

だから、「ウラのまま出すのはやめて」「洗濯にウラ、オモテは関係ない」、そう言っていた。

だが、しかし。

だが、しかし、なのである。

夫婦げんかとは、こういう些末なところから勃発する。

喧々諤々とやったのち、「おれは肌着をウラっ返させてもらう」とようやく勝ち獲った軌跡まで刻み込まれているマイ・ルールなのだ。

洗剤の説明書きごときに覆えされる代物ではない。

 

何遍でも言わせてもらうが、これは"気持ちの問題"である。

そんな決意もあらたに、洗剤のパッケージをまじまじと睨んでいたところ、カミさんが傍にやって来て、「わたしの言ったとおりだったでしょ」と言い残して去っていった。

そして、両面攻めされたシャツを手に、今日も懊悩するのであった。