粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

歯の浮く連帯

男同士の奇妙な連帯感というものは、ときに唐突にやってくるものである。

その日も偶然だった。

若かりし時分、およそ20年前の話になるが、以前に働いていた勤務先での出来事である。

 

その日、少々、気の重くなる、憂鬱な仕事をまわされたのだが、それは自分と直属の上司、そして社長の3人で、近々に立ち上げ予定の出張所候補物件を見に行くという仕事だった。

当時の自分は20代後半、上司はアラフォー、そして50代後半の社長という、世代がまるで異なるメンツで、社用車で現地へと向かうという出張日帰り業務である。

そもそも自分はこの件に関してそれほどタッチしていなかったのだが、現地でも細かく移動するためクルマを運転するヤツが必要だということと、自分が別件で現地周辺の取引先と多少のコンタクトをとっていた経緯があったということもあり、まあ、要するにドライバーとして任命されたわけである。

会社は南関東にあり、出張所開設予定地は北関東だったので、高速を使い、首都高を経由して東北道へと抜けて現地に赴くという道程だった。

当日は現地に午前中のうちに到着したいということで、早朝、5時ごろに社長宅にお迎えにあがり、同乗後、近所のインターから高速に乗りつけて、なんとか首都高東京料金所付近の朝の渋滞につかまらないようにとのスケジュールで動くことになった。

 

一抹の憂鬱は"会話"にあった。

タイトなスケジュールで慌ただしさはあるものの、どう考えてもクルマに乗っている時間のほうが長い。

要するに、「クルマのなかでのトーク、どうすんの? 間がもつの?」というのが不安のタネだった。

正直、直属の上司ですら仕事以外のプライベートの話をほとんどしたことがなかった。

社長とはもとより日常の業務で接点がなく、入社前の面接以来、口をきいたこともない。

そもそも自分は話し下手である。

が、下っ端である自分としては、ただでさえ世代間ギャップがあるというのに、その合間を縫うような滑らかなトークを期待されたらどうしよう、という微妙に強迫観念じみた気負いもあって(取り越し苦労な自意識過剰ともいう)、何遍も申し訳ないが、気が重い、以外のなにものでもない業務であった。

まあ、仕事に行くのだから、仕事の話をすればいいだけのことなのだが、はたして、それで済むのか?

やはり、多少のリップサービスが必要なのか?

考えれば考えるほど、気が滅入ってくるばかりだった。

 

当日。

社長をピックアップして、無事に高速に入り、首都高に差しかかっていた。

車内ではやはり仕事の話で、社長と上司が各業務の進捗などについて情報交換していた。

自分のほうにも、社長から「最近、仕事はどうかね」という常套トークをいただき、まあ、そこはおざなりに無難な返しでその場をおさめたのだが、結局というか、やはりというか、話は途切れる。

社長と上司の業務トークも、平社員の自分がいる手前、それほど突っ込んだ話もできないのか、停滞気味の様子である。

そこで首都高の渋滞につかまってしまう。

と同時に、はかったようにトークも止まり、クルマのなかには完全な静寂がおとずれた。

こういうときの、なんともいえない間のもたなさ、というか、場をどうやって取り繕おうかとヤキモキするような焦燥感は、やはり胃に悪いものがある。

世間話をするにも、それなりに気心が知れている間柄でないと切り出すのもなかなかにむずかしいものである。

自分は放っておいて、お二人で勝手に話してくれよと願いながらも、残念ながら上司も、じつは社長以外の役付きからの引き抜きでこの会社に入ってきた経緯のある社歴の浅い人で、おそらく社長と軽口を交わすことのできる間柄でもないのだろう。

つまりは会話が出てこない。

となれば必然、こうなるだろう。

 

助手席に座っていた上司が「渋滞につかまりましたね。交通情報を聞いてもよろしいでしょうか」といってラジオのつまみをひねった。

ハイウェイラジオの周波域にはいなかったので、ザッピングの後、某FMキー局の朝のラジオ番組に合わせていた。

都心のビル群を横目に、おしゃれな曲が流れる。

交通情報は55分からです、とのアナウンスが流れ、しばらくそのラジオ番組を聴くことになった。

あいかわらず、車内は無言である。

 

それは突然のことだった。

ラジオ番組はそのとき、某有名ヴィジュアル系ロックバンドのヴォーカルにインタヴューするという内容だった。

そのバンドの新譜が発売されたそうである。

背景にその新譜の曲が流れるなか、インタヴューを進めている。

そこで、こんなやりとりがあった。

 

「◯◯さんが、影響を受けたアーティストは、どなたですか?」

 

まあ、ありがちな質問である。

車内の雰囲気もあって、みな傾聴モードに入っていたが、さしたる関心もあるわけでもなし、この場をやり過ごすためだけに聞き流しているだけだが、次の瞬間、引っかかりを覚える、謎の答えが返ってきた。

 

「ボクの母です」

 

〈ん?〉と思ったが、そこはふつう、昔のミュージシャンの名前とか出るのではないのかと思いつつも、まぁ、いいだろう、先が気になる。

 

「へぇ、お母さまもアーティスト活動をなさってたんですか?」

「いえ、ふつうの母親です」

「え、では、なぜ?」

「ボクというアートを産んだから……」

「……」

「──」

「(ハッとして)そっ、そうですか、お母さまですか……」

「女性はみな、アーティストですよ。"人という芸術"を産み出す」

「……」

「──」

「……なるほど、そうですか、そうです、よね」

「ええ、そうです。"ボク自身がアートそのもの"ですから」

「……」

 

……この発言、周囲はいったいどのように受け止めればいいのだろうか。

 

まず、事実、この発言によって、ただでさえ冷え込んでいた車内がより一層の凍結状態におちいったことは言うまでもない。

さむい。

とにかく、さむい。

ひゅうぅぅ、という擬音では足りない冷え冷えとした悪寒が車内に走った。

ただでさえ無言の行、状態なのに、輪をかけて居たたまれない、この寒さからどうにか逃げ出したい、という神仏に祈りを捧げんばかりの状況である。

電波の向こう側でも実際、インタヴュアーの声色から"ドン引き"の様子が伝わってきた。

が、一方で、発言した当人は「バッチリ決めたった」という達成感とともに、ある種のオラオラ感すら漂う空気で、その後も自説を展開する始末である。

その、意想外の氷結の魔術の暴発によって、スタジオおよびこちらの車内の底冷え感がよりいっそう濃縮還元状態である。

本人以外はみな瞑目して、勘弁してくれよ、と心のなかで漏らしているはずだった。

 

正直、百歩譲って、こういう"くさい"セリフに、世の女性は惹かれるのだろうか。

よくわからないが、これは可能なかぎりの好意的な解釈ではあるが、この"アーティスト"は、おそらくいろいろなところで同じような質問をされているのだろう。

本人にしてみれば、通り一辺倒の答えをすることに飽き飽きしていたのかもしれない。

かつ女性ファンも多く、その心意をおもんばかったのだろう。

リップ・サービスも兼ねて、このような凶行に及んだのかもしれない。

が、繰り返すが、これは百歩譲った、かなり歩みよった惻隠の解釈である。

 

あるいは千歩譲って、このセリフを額面通りに受け入れたとして、これがはたして朝から言うセリフだろうか。

このような口説き文句は、然るべき時間、然るべき場で使ってもらいたい。

たとえば、このセリフを夜の繁華街での専門業務、ホスト稼業従事者の方々が限定的シチュエーションで取り扱うのならば、それはそれで勝手にやればいいことであるし、なんら異論もない。

だが、通勤通学の時間帯に、大衆向けに"キメて"もいいものなのだろうか。

ボクもあなたもアーティスト、と言われても、「ちょっとなに言ってるのかわからない」、朝からの足どりもくだけんばかりの脱力感に見舞われるのではあるまいか。

いわんや、朝の気怠るくも爽やかな勤労意欲を全力で阻止しにかかっているのだろうか。

 

もしくは万歩譲って、このセリフに共感できる人たちがいるとして、一方で、この"歯の浮くような"セリフに全身全霊で拒絶反応を示す人間もここに確かにいるということを、声を大にして言いたい。

こういうセリフに、「うわぁあああ」と頭を掻き毟りたくなる人種もいるのだ。

思わず「マジか……」と口からポロッと出てしまったのだが、助手席からは相槌を打つように上司が小さく「ないわー」とつぶやく声が聞こえてくる。

後部座席からは「ヤバいな」と社長がひとりごちっていた。

当時、"ヤバい"というワードはまだ若者言葉で、年配の人が口にするのをあまり聞かなかったものだが、社長が思わずそれを漏らしていることに驚きつつも、激しく同意した次第である。

 

そして、奇妙な現象が起こった。

ここにひとつ、"こういうことは絶対に言わない"という共通認識で、世代を超えた男どもの連帯が生まれたのだ。

そう。

こういうセリフは絶対に言わないし、言えない。

万が一、このようなイマジナリー・ワードが頭を掠めたとしても、恥ずかしさのあまり金輪際、口に出すことはないだろうという、そういう恥の分水嶺のこちら側にいる男どもの連帯感である。

こういうメンタリティは昨今、片寄った、狭窄な感性だといわれてしまうのだろうか。

が、そうであっても、そんなこと知ったことか、である。

だって、恥ずかしいんだもの。

その一事だけで、この車内の男どもは十二分にわかりあえたわけである。

 

で、そこからは、これまでの車内の沈痛な雰囲気が嘘のようにひるがえる。

なんというか、なにを言っても、「うん、わかる」と理解しあえるような、奇妙な連帯意識が芽生えたわけである。

上司が続けて、「こういう"歯の浮く"ようなセリフを臆面もなく言えてしまう、ある意味、"突き抜けた"人たちが、芸能人になるんですかね」と言っていた。

うん、わかる。

「そうかもしれんな。こんなこと、ふだんの生活でだれかに言ってみろ。気が触れたかと思われるぞ。ウチのカミさんなら、言ったが最期、出家するかもしれん」と社長。

うん、わかる。

いや、よくよく考えてみると訳のわからないコメントではあるが、上司も自分も「なるほど」と腑に落ちる。

ちなみに社長から、「いまどきの若い男児は、女を口説くときに、こんなキザったらしいセリフを言いまわすのかね」と尋ねられたのだが、「ムリです。ないです」と即答しておいた。

そうだろう、そうだろう、と社長、上司。

といった塩梅で、その後、すでにわかりあえた者同士、会話が無くとも苦でもなく、終始なごやかに、奇妙な連帯感につつまれながら、この日の業務はつつがなく、流れるように軽快に進行して、一日を終えたのであった。

そういう意味で、当初の懸念を払拭してくれた、あのヴィジュアル系ロック・アーティストの"歯の浮く"発言に感謝せねばなるまいとも思った仕儀である。

 

それにしても、こういう恥ずかしい殺し文句にあい対して、"歯の浮くような"と形容するとは、おそろしく言い得て妙である。

この形容表現を発明した人というのは、稀代の天才ではあるまいか。

肌が粟立つような遣る瀬ない文句を耳にして、"咀嚼しようにも、噛みしめられない"という、歯槽膿漏が悪化しそうなこの表現。

絶妙というほかない。

叡智である。

 

ちなみに、こういうセリフをナルシスティックに感じてしまう感性は、2024年現在、廃れつつあるのだろうか。

先日、エッセイストの酒井順子さんの『無恥の恥』(文藝春秋、2022年)という文庫を読んでいて先述の出来事に思いを致したのだが、この本の帯には次のようにある。

 

「「マザコン」が罵倒語だった時代ははるか遠く、若い男たちは堂々と母とデートし、母とハグするようになった。昔の親は、謙遜のあまりわが子を「豚児」よばわりしていたが、今ではSNSで「ウチの王子」「姫」と堂々と愛でるように……」

 

こういう若者たちがいるのならば、先のセリフも難癖なく受け入れ、"ボクはアートそのもの"と真顔で考えているのかもしれない。

思えば、あのヴィジュアル系ロック・アーティストの追っかけをしていた女性ファンたちが、いまでは人の親である。

そうであるならば、現在、ボクも、ワタシも、みんなアーティストと言えてしまう人たちが世の趨勢を占めているということになる。

となると、気づけば、このような"歯の浮いた連帯感"をもつことのほうが"恥ずかしい"ことになっているのかもしれない。

 

でも、どうなんだろう。

やっぱり、あのセリフはないわな、と、そんなことを歯槽膿漏が悪化して歯がぐらつき始めたこの年齢になって、歯科の診療台のうえに寝かされながら、先日、頬をすりすり、ぼんやりと反芻した次第である。