休日の昼下がり。
とくにやることもなし、居間でトドのようにゴロゴロしていたところ、なにやらカミさんの癇に障ったのか、叩き起こされて、どこかに出かけてこいと言われる。
と言われても、行きたいところもなし、どうしようかなと逡巡しつつも、そういえばクルマが汚れていたなと思い出して、洗車をすることにした。
年末の大掃除のとき以来であったが、その前回には外見だけを取り繕って、車内はささっと手を入れただけで済ませたのを思い出し、今回は車内清掃をメインにやることにした。
すると、どうだろう。
出るわ出るわ、スナック菓子のカスが大量にわいて出てきた。
なんじゃ、こりゃ、と思いつつ、清掃を進めていくと、非常に細かい、入り組んだ隙間から、どういうわけだか多種多様なポテチ類のオンパレードである。
変わり種では、マックのポテトのしおれたのヤツなども発見された。
身に覚えがない。
ところで、最近、自分は徒歩通勤である。
どちらかというと目下、このクルマを主に使っているのはカミさんなわけで、つまりはそういうことである。
どんだけ買い食いしてんの?と思いつつ、また、どんだけポロポロこぼしてるのか?と呪詛を唱えたくなったが、家庭内の平和のために敢えなく呑み込んだ次第である。
ちなみにカミさんは無類のポテチ好きで、旅行などに出かけると、かならずご当地ポテチをお土産に買って帰ってくるほどに愛好しており、機嫌がナナメのときに「じゃがりこ」を与えると多少不満が緩和される程度に、よくパリパリと食っている姿を見かける。
ということで、小腹が空いたときは迷いなくポテチ一択なのだろう。
運転しながら、股にポテチの袋をはさみ、ポリポリとつまんでいる姿が目に浮かぶ。
そして気づかずにポロポロとこぼしているのだろう。
おのれ。
先ほど家から叩き出された恨みを胸に、車内清掃を進めつつ、そういえばと、別のフラッシュバックではあるのだが、思い出したことがあった。
むかし、学生時代であるが、電気工事の職人さんのところでアルバイトをしていたことがあった。
そこの親方がスゴい人で、なにが、というと、運転しながら幕の内弁当を器用に食うのである。
説明がどうにも難儀ではあるが、まず左手でハンドルをおさえて走行を安定させるわけだが、同じ左手で弁当本体を抱えつつ、手の側面の腹を使ってハンドリングする。
ここまではできなくもないが、秀逸なのは弁当を水平に保つ際の左手各指の角度と保持姿勢である。
ときには親指でフックしながら他の指を駆使して2点?3点?で支え、右手で箸を持ちつつ、惣菜や白米などをつまんで口に運び、ときおり、こちらも右手側面の腹で車の操縦のほうに細やかなサポートを添えながら、器用に運転と食事とを交互に連動させて済ませてしまうという"離れ技"だった。
しかも、こぼすこともなく、食べあとも美しい。
けっして"喰い散らかしている"という感じではない。
ウチのカミさんとは大違いである。
すごいですね、と称賛すると、こんなこと造作もない、という。
それが証拠に、ある日には、コンビニで昼飯にカップ焼きそばを購入して店頭でお湯を注いだ後、クルマを出して走らせながら、田舎道にさしかかったところでサイド・ウインドウを開けて、じょぼじょぼと湯切りをして、ソース・マヨ・青のり等の小袋の小さな端を上手い具合にちぎって投入、箸でかき混ぜて製作後、完食にまで至っていた。
これすべて、走行中の出来事である。
また別の日には、湯をなみなみと注いだカップ麺もふつうに食うという器用さであった。
ちなみにクルマはミッション(マニュアル車)であることが業界標準だ。
つまり左手でクラッチも捌かなければならない。
そういうときには、弁当本体を芸術的に右手に手渡すか、フロントボードの上に一時待機させて、操作完了後、ふたたび食事に戻るわけである。
しつこいようだが、これすべて走行中の出来事である。
一連の動作には見ごたえもあった。
この技能、ふつう、おむすびやパン類といった単体固形物まで、というところだろう。
せいぜいが素手で、という原始的手法だ。
そして幕の内弁当などの複合体ともなれば、もちろん難易度も上がる。
こちらは箸を使用するという、高等技術にも等しい手練手管を要求される。
さらには麺類をすするなど、実際、なかなかにハードだと思う。
流体、すなわち汁物となると、遠心力や不測の事態等で熱湯をぶちまける惨事を考慮すると、お笑い芸人の鉄板ネタでは済まされぬような、やけどと交通事故の危険度も高まるハイ・リスクの所行である。
が、それを難なく、やすやすと捌いてみせるところに、別の意味での「職人技」というものを見せつけられたような気がした。
ちなみに、念のためお断りしておくが、このような運転行為はグレー?ではあるが、危険であることは確かなので、賢明なる読者諸氏はこの技能を研鑽することは固くやめたほうがいい。
仔細は不徳にも不明だが、近年、ケータイ通話ですらアウトなので、法にも触れるかもしれない。
数十年前の事情なので時効だろうということで話しているが、それにしても弁当で捕まるのもなさけないことだし、事故が起こってからではあとの祭りである。
余談となるが、電気工事の職人稼業は、忙しいときには1日に現場をかけもちで相当数まわらなければならないこともあるそうだ。
実際にバイトをさせてもらって、そのときも1日に2〜3現場はふつうで、自分が経験したなかでは、多いとき最高で6箇所もまわった。
新築の現場などでは、大工など他の職人さんたちの工事の進度にあわせて、その合間を縫うように施工しに行かなければならず、ほうぼうを駆けずりまわる。
つまり、クルマを止めて昼飯をゆっくり摂る時間もなかったりするわけだ。
ということで、運転しながら弁当を食う、というこのワザは、とにかくあちこちへとクルマを走らせ続ける、そのような職業柄の事情で編み出された技能だったわけである。
それにしても親方に、「いや、やっぱりすごいですよ。こういうハンドル捌きの種類もあるんですねぇ」と話すと、照れながら、この技能のいろいろなノウハウや苦労話を教えてくれた。
まず、カップ麺はヌードル系の筒型寄りの形状のほうが捌きやすいそうだ。
これはまあ、わかる。
握り込めるぶん、安定度が高い。
平型、どんぶり型だと支えるのに修練が必要なようで、最初のうちは盛大に湯をこぼして、よく「熱つっ」と内腿を焦がしていたそうである。
それと、これは目から鱗だったのだが、次の現場までの道中をイメージしてコンビニ弁当を選択することもあるという。
たとえば、交通量の少ない直線道路が道中にいくつかあるところでは、汁物を選択するそうだ。
そのポイントにさしかかったところで、手ばなしで麺をすすり、汁をすするためだそうである。
この場合、それまでの前傾姿勢の制約を解き放って背筋を伸ばした端坐の態をとり、やはりズルズル、ガァーと掻き込みたいというのが、麺類を食すときの日本人の本能なのだろう。
もっともこれはアクロバット運転なので公道では絶対にしてはいけないのだが、これも時効ということで、そのノウハウの一端として開陳しておく。
それにしても道順を計算に入れるあたり、プロである。
また、これは笑い話だそうだが、ある年の瀬の頃合、現場上がりのご祝儀ということで、お客さんから御重をいただいたそうなのだが、腹が空いたので帰宅まで我慢できず、運転中、つまみ食いを始めたそうだ。
三段重ねのおせちの弁当で、小分けにされた惣菜が各種つまっていたそうだが、フロントボードに三枚並べ、いくつか食べたいものに当たりをつけて取っ替え引っ替え取ろうとしたところ、運転に集中しなければならないシチュエーションが来てしまい、つまみながらも途中からなにを食っているのかわからなくなってきたことがあったそうだ。
これとこれとこれ、と見繕っていたはずの惣菜が、運転に気を取らたせいで(本来、運転に集中せねばならないのだが)、別のものを口に運んでしまい、予想していた味と違う味が口のなかにひろがって、てんやわんやだったそうである。
甘いと思って口にしたものがしょっぱく、しょっぱいと思ったものが甘い。
もう、なにがなんだかわからず、かつ運転にせわしなく、おかげで、せっかくのご馳走が台無しだったそうである。
当たり前のことだが、「味わうためには、ちゃんと"止まって"食べたほうがいい」と笑って話してくれた。
でもって、親方の最後のこの感想、いま思い返せば、傾聴に値する含みのある至言であるといえまいか。
これは"運転"だけにかぎらない。
食も、人生も、"立ち止まらなければ味わうことはできない"ということを教えてくれている。
ふだんの生活で仕事に追われて忙しくしているのならば、食を味わうこともできなければ、人生を味わうことを忘れさせるものでもある。
立ち止まることで、ふと我にかえって、そこからようやく味というものが舌先に芽吹くのではないかと、この歳になってようやく思えてくるのである。
人生のハンドル捌きばかりにかまけて気もそぞろであるならば、この人生をほんとうに生きているのかという懐疑が影を差す。
足下に意識を振り、アクセルを緩め、ときにはブレーキをじわりと踏みしめなければ、わけもわからず走り続けて、人生の醍醐味を味わうことなく終わってしまうかもしれない。
洗車しながら、そんなことをしみじみと考えさせられた。
それにしても、同じハンドル捌きでも、運転しながら弁当の食うためのハンドル捌きというのも、なかなかにわるくない趣向であると思う。
そもそも人間、人生の舵切りなど思うようにはいかないものだ。
もしかしたら、どうこうコントロールするようなものでもないのかもしれない。
かつての友人のなかに、進学と就職を天秤にかけながら、まったく関係のないナンパにうつつをぬかすという輩もいた。
それなりに名のある企業の内定を取りながらも、食指が動かんという理由でそれを蹴り、雀荘に入り浸っていた友人もいる。
その後の鳴かず飛ばずの人生であっても、彼らはそのときどきの"好物"に正直に、忠実にハンドルを捌いて、いまではそれなりの人生を送っている。
本意はさておき好事に走る、というのも、それはそれで、人生とはそういうものではないかと思えてくるのである。
幸、不幸など、誰しもときどきの気の迷いで表裏混然と感じるようなものなのだから、正解のハンドリングなど無きに等しい。
ならば、弁当を抱えながらハンドル捌きするくらいが、ちょうどいいのではないか。
なにもハンドル構えて肩肘張って、シャチホコばる必要などない。
そこから、人それぞれの人生の面白さというものが際立ってくるものだと思えるのである。