粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

超進化論的形相

先日、カニを馳走になる機会があった。

 

店で少々、席が空くまで待たされているあいだに、店に備え付けられていた生け簀を眺めていた。

いろいろな魚がひらひらと身をひるがえすなかに、お目当てのカニもいた。

 

そのカニをまじまじと見る。

 

そして、思う。

 

このかたち、そういうものだと見なして凝視したとしても、そう思うには余りあるほどのフォルムをしていると感じる。

 

なぜ、このような、かたち、をしているのだろうか。

 

このかたちは、ほんとうに、たとえば環境適応したという因果律のようなもので語り切ってしまえるほどの、かたち、なのか。

 

ほんとうに、進化の先にたどり着いた、合理的に説明できるような、かたち、なのか。

 

このかたちは、そんな説明で済ませられるような範疇を超えた、過剰なまでの、かたち、なのではないか。

 

このカニだけではない。

まわりを泳ぐさかなたちのかたちも、えびのかたちも、いかのかたちも、たこのかたちも、どれもこれも、ひとつとして当たり前のかたちなどしていない。

どうぶつも、とりも、むしも、しょくぶつも、にんげんですら、そのかたちをまじまじと眺めると、奇妙なことこのうえない。

 

鏡を見て、自分の外形が、あるいは自分の輪郭が、どうしてこのようなかたちなのか、不思議に思ったことはないだろうか。

 

太っているとか、痩せているとか、背が高いとか、背が低いとかではない。

 

なぜ、このかたちなのか。

 

このかたちは、合理的に説明できる結果を、ほんとうにあらわしているのだろうか。

 

もし、そうでなかったならば、このかたちはあきらかに「異形」である。

 

では、なぜ、これほどまでに、これら「異形」が、この世にあふれているのか。

 

そしてなぜ、この「異形」の過剰さに、ほとんどの人は気づかないのか──

 

 

少なくとも、カニのかたちは「デザイン」で扱える範疇は超えている。

カニのかたちを正面切って扱えるのは「アート」のほうだろう。

 

人間の社会なり経済なりが浮き沈みしようとも、それとはお構いなしにアートが存在し続けるのは、こういうところにあるのだろう。

 

カニのかたちを見て、アートの可能性というものに思考が飛躍した次第である。

 

追記:このかたちを見て、これを最初に食べようと思った人もすごいと思う。自分もこの日、おいしくいただいたのだが、食べ終わった殻を間近でさらに眺めて、やっぱりどこをどうとっても不思議なかたちだなと感じた。