この噺、大袈裟なもの云いになるかもしれませんが、落語的発想の粋を集約したような超現実的なおはなしとなります。
しかも「ボケ」の究極形といえるかもしれない一言が飛び出す、瞠目すべき展開と落ち(サゲ)。
落語の世界の扉を開ける最初の一話としてもおすすめしたいネタとなります。
◾️ あらすじ
噺は浅草の観音様(浅草寺)の前、行き倒れの現場から始まる。
人だかりができており、そこを通りかかった八五郎。喧嘩か見世物か、なにやら面白いものが見れそうだと、集まる人様の股ぐらをくぐり抜けて、騒ぎの渦中に躍り出る。
そこには筵に横たわるご遺体がひとつ。
「なんです? これは」
「行き倒れだよ」
「いつから始まるんです? イキダオレってのは」
「見世物じゃないんだよ。ここに寝てるのは死んだ人だ。身元不明だから、みなに検分してもらってるんだよ」
「なんだい、そうですか。それじゃ、生き倒れじゃくて、死に倒れだ」
わけのわからないことをぼやきつつ、この八五郎、粗忽者でそそっかしく、早とちりが過ぎる性格である。
「おまえさんも、見てやっておくれ」といわれて仏さんの顔を拝むと、びっくり仰天、飛び上がることに。
「あ、熊の野郎だ!」
「なんだい、知り合いかい。なら、家族に知らせておくれよ。引き取り手がいないんだ」
「いや、こいつ、独り身なんですよ」
「そうかい、それならおまえさん、隣人のよしみで引き取っておくれよ」
「いやいや、今朝、顔を合わせたばかりなんですよ。本人を連れてきます」
「はあ? なにを言ってるんだい。この仏さんは昨晩、行き倒れたんだよ。今朝、顔を合わせるわけないだろう」
「いや、まちがいねぇ。当人ですよ。熊の野郎、今朝、具合がよくねぇとぼんやりしてましたから」
「おいおい、おまえさん、しっかりしておくれよ。人ちがいだろ。行き倒れたのはゆうべだよ」
「いやいや、間違いありません。そそっかしいヤツなんで、死んだのを忘れて、家へ帰えっちまったんですよ。こうしちゃいられねぇ、本人を連れてきますよ」
「おい! あんた。あらあら、行っちゃったよ。困った人もいたもんだねぇ」
長屋へと駆け出す八五郎。ドタバタと熊の元へ。
「おい、熊! クマぁ! ぼんやりしてる場合じゃねえぞ、てぇへんだ! おめえ、死んでだぞ!」
「騒々しいな。なんだい、藪から棒に。こちとら具合が悪いんだよ」
「だから、おめえ、死んでたんだよ」
「死んでた? そんな心もちはしねぇが」
「まったく、それだからおまえはずうずうしいってんだ。死ぬなんてこたぁ、はじめてのことだろう。はじめてのこととなりゃ、心もちなんてわかるはずもねぇ」
「ちげぇねぇ。具合も悪いし、これが死んだ心もちってやつなのかな?」
「おれが知るか。それより、おめえ、ゆんべはどうしてたい?」
「夕べ? ナカ(吉原)ひやかして、馬道で一杯ひっかけて、観音様の脇まで来たのは覚えているけど」
「どうやって、帰えってきたんだい?」
「忘れちまったあ」
「それみねぇ。死んだの忘れて帰えってきちまったんだよ。まったくもう、おめぇくらいそそっかしいヤツはねぇなぁ。ほら、いくぞ」
「いくぞって、どこへ?」
「おめぇのむくろを引き取りにいくんだよ」
「おれのむくろ?」
「当たり前ぇだろ。ほら、いそげ。よそ様にもっていかれたらどうすんだい」
行き倒れの現場へと取って返す八五郎と引きずられる熊。
「どうもすいません。本人を連れてきました。死骸を引き取りに来ました」と八五郎。
「おいおい、ほんとに連れてきちゃったよ。困った人がまたぞろ増えちゃったよ」と見張役。
「どうだい、おめえだろ、熊」
「これがおれ? あ、ほんとにおれだ。おれだよ、これは。なんてぇ、あさましい姿に」
「だろ。てめえの死に目に会えたんだ、かえって浮かばれるってもんだ、なぁ。ほら、ぼさっとしてないで、そっち持て」
"本人"も納得。死骸を運ぼうとする。
「間違いだってば」と見張役。
「うるせぇ。当人がおれだって言ってるんだ」と八五郎。
一方で、"自分"の死体を抱きあげる熊公"本人"。
そこでサゲの一言。
「だけどアニキ。おれぁ、なにがなんだか、わけがわからなくなっちゃった。抱かれているおれはたしかにおれだが、抱いているおれはいったいどこの誰だろう?」
◾️ 落語のことば補説
▼ 粗忽(そこつ)
そそっかしくて、抜けている(思慮の足りない、不注意、軽率な)人物をさして粗忽者という。勘違いが酷い有り様といえようか。
落語のあまたある噺のなかでは、この噺のような、突拍子もなく、せかせかして、慌ただしい登場人物が、なにかしらの素っ頓狂な発言をしたり、あるいはスッとボケたしくじりや粗相を犯しつつストーリーが展開していくパターンも多い。
古典落語の世界では、こういった粗忽者たちは大いに笑われはするものの、けっして侮蔑的な対象としては描かれていない。むしろ一様に、しょうがねぇなぁと愚痴られつつも、思いやりと優しさをもって生き生きと描かれている。
▼ 長屋(ながや)
落語の世界の「町人」たちが住む「共同住宅」である。
一般的には、一戸あたり「九尺二間(くしゃくにけん)」といわれ、木戸を引いて中に入ると、まず9尺の間口があり、奥行き二間の「ひとま」という間取りが主流だったそうだ(およそ6畳程度ののワンルームということになる)。手狭ではあるが、この九尺二間が横並びに幾つかひっついて一棟となり、これがいわゆる江戸期の町民たちが住む「長屋」ということになる。
表通りから裏路地に入ったところにある貧乏長屋をとくに「裏店(うらだな)」といい、長屋と長屋が向かい合うその裏路地には「どぶ板」が張られ、また合間には煮炊きや洗濯などに使う共同の井戸、つまりは「井戸端」スペースがあり、同じく共同便所である「後架(こうか)」、物干しなどの生活空間があり、噺のなかでもよく出てくるワードとしては、このあたりになるだろうか。
それと、現代にも通づるかもしれないと思われる住宅事情としては、「壁の薄さ」がある。落語のなかでも、壁をドンドンと叩いて、隣戸に「椀と箸をもってきやがれ」と喚くシーンなどもときおり出てきて、長屋住まい同士がもつ、気心の知れた連帯を感じさせる描写が随所に出てくる。
▼ 行き倒れ(いきだおれ)
路傍で倒れている死骸(むくろ)のこと。
現代であれば事故現場や殺人事件現場などを想像するかもしれないが、江戸期にあっては寒さ、飢え、病気などで行き倒れてしまう人もあり、ご遺体については町奉行所へ届出後、身元を明らかにするために、この噺のように、むしろ衆目にさらして、引き取り手を探したそうだ。
身元不明となった場合、無縁仏(むえんぼとけ)として本所回向院や三ノ輪浄閑寺などに埋葬されたが、それらの手間や諸経費などがすべて現場の町負担となるため、人だかりができて厄介なところを含みつつも、引き取り手が現れてくれれば大助かりだったそうである。
◾️ 鑑賞どころ私見
当ブログ名に冠させていただいた、私事で恐縮ですが、数十年前、落語の世界に魅了されるきっかけとなった噺である。
そのときの演者はたしか五代目・柳家小さんだったと思う。
録音だったか、NHKないしNHK教育の深夜?朝方?の寄席番組だったかは忘れたが、なにげなく耳にし、いつのまにか惹き込まれ、そして瞠目させられたことを思い出す。
とにかくサゲの一言にガツンとやられてしまったわけである。
以来、この噺を足がかりに落語の世界にどっぷりと浸かり、その豊かで度肝を抜かれる発想力と、それを頓珍漢に笑い飛ばしてしまうメンタリティの強靭さとにすっかり虜になってしまった次第である。
それはさておき、この噺、手前勝手な解釈をさせていただくと、いわゆる「アイデンティティ」の問題にも踏み込んでいて興味深い。
じぶんは何者なのか?
呆けたように聞こえなくもないこの疑問はしかし、人の一生を眺めてみると、折に触れて影をさし、わりとのっぴきならない問いかけであるような気がする。
たとえば特異な経験によって心身を喪失したり、あるいは老年性の痴呆などによって自我の統合失調状態、つまり「じぶんがじぶんであることをわかっていない」状態に陥ってしまうなんてこともあるが、じつはこれにかぎらず、人間誰しも、そもそものところ、「じぶんがじぶんであることを、じぶんでは説明できない」という原理的な問題を孕んでいるものなのである。
この「自己同一性」についての議論はたいへんに混み入ったものなので、こむずかしい事はここでは割愛するが、兎に角、そんなやっかいな領域にまでこの噺は躊躇なく踏み込み、さらにはそれを笑いへと昇華させてしまうという離れ業までやってのけている。
この噺が内包する、その逞しき精神性には脱帽するしかないのである。
さらに。
自分で自分の死体を引き取りにいって、いったい自分は誰だろうと首をかしげる──。
正直、これはボケの極致といえまいか。
これ以上、ボケることはできないという漫談の極北に届かんばかりの、ある意味、振り切れた、ハチとクマの「ボケ+ボケ」のかけ合いである。
最近の漫才の定番設定と違って、ツッコミ不在のかけ合いとなるわけだが(もとい、ツッコミはさしづめ行き倒れの見張をしている町役となるのだろうが、これはあくまでも端役である)、このどこまでもボケ同士でボケ倒しつづけ、現実を軽やかに超えていくさまを、立川談志が「イリュージョンの世界」と言っていた。
まさにそのとおりである。
しかも、これだけボケ倒しつづけながら、けっして噺を破綻させることなく、きれいにまとめあげるサゲの一言。
諸手をあげて、お手あげである。
さらには、これは"古典"落語である。
現代人はつゆ知らず、ボケの究極形はすでに完成されていたといっても過言ではないのではないか。
江戸期の庶民文化から涵養されたこの飛び抜けた発想力に、ただただ恐れ入るしかない。
それにしても、こんな噺、海外あるいは余所のどこかに存在するのだろうか。
古今東西、不覚にも聞いたことはないが、独断と偏見と身贔屓で、こんな物語が存在する文化性は日本だけなんじゃないかと拙考する。
ともすれ、落語の真髄、ここにありきである。
古典落語のネタはこれまでの噺し手たちの語りようと観衆の耳とでもってスジを磨きあげ、無粋をそぎ落とし、骨子を纏めあげてきたものである。
つまりは噺そのものに、それぞれの噺固有の"粋(すい)"と"味"がある。
落語の世界に未踏の方々におかれては、とりあえず芸談や能書はさておいて、噺のなかのこういったシュールなかけ合いなどに舌つづみして、その味わいを確かめてみてほしいものである。
「粗忽長屋」はそういった意味でも落語的発想のなかでわりと定番の味ともいえ、最初の一話としておすすめしたい噺である。
◾️ YouTube 視聴
[*2024年4月現在、視聴可能な動画となります]
▼ 映像あり
・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=057r5frXQVY
▼ 音声のみ
・柳家小さん[五代目]:https://www.youtube.com/watch?v=qUKT0_7PkoE
・古今亭志ん生[五代目]:https://www.youtube.com/watch?v=K_nLAxXHYi4
・古今亭志ん朝[三代目]:https://www.youtube.com/watch?v=ltUmlXN1XlU
・柳家小三治[十代目]:https://www.youtube.com/watch?v=XZKVZiEKGVs
・柳家喬太郎:https://www.youtube.com/watch?v=tqCpDn-NSDM
・林家たい平:https://www.youtube.com/watch?v=olvJpG0Dj3Q
・桂文珍:https://www.youtube.com/watch?v=AMbQVendpd4
◾️ 参照文献
・矢野誠一『落語手帖』(講談社+α文庫、1994年)
・京須偕充『落語名作200席(上・下)』(角川文庫、2014年)
・榎本滋民 著、京須偕充 編『落語ことば・事柄辞典』(角川文庫、2017年)
・立川志の輔 選/監修、PHP研究所 編『滑稽・人情・艶笑・怪談… 古典落語100席』(PHP文庫、1997年)