粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

牛の尻に跳び蹴り

友人が地方に移住して、田舎暮らしをしたいと言っている。

こちらも以前に田舎暮らしというか、晴耕雨読の生活にある種の憧憬のようなものを抱いたクチなので、そういえばだいぶ前に、この友人にそんな話をしたこともあったっけな、ということで、話につきあうことにした。

待ち合わせに指定された「カフェ」へ赴き、友人が来るまで時間を潰していたのだが、ぼぉーとしながら、この友人のことを考えてみる。

この友人は、待ち合わせ場所に「喫茶店」ではなく、「カフェ」を指定するような種類の人間だ。

居酒屋ではなくバー、クラブ?、サロン?、飯屋や定食屋ではなくダイニング?、ビュッフェ? を指定してくるようなヤツである。

つまりは、そういうオシャレさんで、こういう人たちが田舎に行っても、意味はよくわからないが「オーガニック」なる生活というものを標榜し、片田舎なのにカネをかけて小洒落た家に住んだりしそうである。

そんなことを考えていると、おしゃれなアウトドアブランドで身を固めたその友人がやってきた。

 

こういう手合いの人たちというのは、なんというか、どこへ行っても、そこを崩そうとはしない、いや、崩れることはないのだろうなと思わせる。

むろん、それを悪いといっているわけではない。

だが、なんというか、こういうオシャレな人たちは、地方や、田舎や、自然や、農業など、というものにどこかズレたイメージを抱いているように感じたりもする。

というのも、以前に、農業体験、酪農見学という催しに参加したことがあって、そのときの感想から、農業などの人間の営みというものが、とてもじゃないが牧歌的なものでもないし、スローライフでもなんでもない、と思い知らされたからである。

 

その農業体験というのは、数日間、農家に寝泊まりさせてもらいながら収穫作業の手伝いをするボランティアのようなものだったのだが、このてのイベントにありがちな、さわやかな汗かいて、食事も美味しく、食べものへの感謝を育み、農家の皆さんの仕事の大変さを想うという、お決まりの内容で、まあ、それ自体に異存はなかったのだが、こちらはひねくれた性格なので、べつの感想を抱いてしまった。

 

まず第一に、この生活を送り、この仕事を続けるのならば、俺を機械人間に改造してくれと、作業中、なんども思った。

とにかく、腰が痛かったからだ。

中腰の姿勢を長時間とり続けるわけで、これがかなりキツい。

こちらがただヘタレなだけなのだが、だがしかし、それを差し引いても、農家の方々には頭が下がるばかりで、これはけっしてさわやかな汗などではないという感想をもった。

これは苦汁である。

これを体験してみて自分が思ったことは、情緒もへったくれもないが、畑や田んぼにどんどん機械を入れたほうがいい、とすら思ったほどである。

それがさまざまな事情から、なかなかに難しいことだというのはわかるが、この農作業というものをかんがみるに、身体的にかなりの過酷を強いるような業態だというのが、忌憚のない率直な感想だった。

要するに、「オーガニック」にたどりつく前に汗水泥で倒れる、ということである。

 

ところで、そのときの農業体験で、キャベツとレタスの収穫を手伝ったのだが、そこでちょっと不思議な格好をしている人を見かけた。

なんというか、バイオハザードで見るような、全身を防護服のようなもので覆っている、といった格好の人だったのだが、傍にいた農家の方に尋ねてみると、その人も同じ地元の方で、長年、収穫期だけ手伝いに来ている人だそうで、どうしてそんな格好をしているのかというと、「胆汁?にかぶれるから」との理由だった。

ご存じだろうか、収穫の際にキャベツやレタスの茎や芯のところにナイフの刃を入れてパッキリと刈り取るのだが、そのときこの茎や芯の切り口の部分から白い胆汁のようなものが出てくる。

この白い胆汁が、人によってはかぶれるそうで、その人はこれにしょっちゅうかぶれてしまうので、全身を防護服でおおって作業しているそうなのである。

その防護服というのが印象的で、それが連鎖的に、次のようなイメージを抱かせた。

思うに、そのとき自分は「工場」のなかにいたのだ。

青い空の下、涼やかな風が吹きとおる高原にいることのほうが幻想に感じられるくらいだった。

畑や田んぼのことを「圃場」というそうだが、圃場は工場とかわらないと思った。

区画整理された圃場のなかで、ある種のシステマチックな工程を経て、農産物というプロダクトを生産している、と思ったわけだ。

防護服が、それを強く印象づけた。

 

農業というと、自然との牧歌的な「共生」をイメージしがちだが、実情は真逆であるように感じられる。

むしろ、人間の各種の営みのなかでも、もっとも自然と隣りあわせで、それゆえにもっとも直接的に矛をふるっているのであり、ある意味で、対自然戦線の前線であるといえる。

もちろん、そのことを糾弾しているわけでは毛頭なく、そもそも、それが農業というものなのだ。

古来から人間はそうしてきたわけで、ことばは悪いかもしれないが、自然を歪め続けてきたともとれる。

だが、それが農業だ。

アメリカなどでは、圃場が広大であるがゆえに、飛行機を使って農薬散布しているそうだが、そういうものだろうとも思う。

確実に自然を歪めつつ、それでも、昨今の地球の課題となっている持続可能性というやつを考えなければならないのは、この人間の業をいかにして延命させていくのか、ということなのだろう。

食うために、いずれにしても、かたちはどうあれ、人間は自然に手を下している。

「オーガニック」ということばの使い方も、よくよく考える必要があるような気がする。

 

ほかにも、農家の方々からいろいろな話をうかがったのだが、米や青果というのは単価を上げにくいのだそうだ。

食品というのは人間の生存や生活の基盤に関わるものなので、おいそれと値をつりあげることはできない。

それをすると、社会と経済に混乱をきたすからだ。

米や野菜が高価なものになると、たしかに困る。

それゆえに、農家の方々が生計を立てるためには、必然的に大規模生産への道に向かわざるをえなくなる傾向があるという。

アメリカの農業の実情がそうなっているように、そして大量生産を可能にするために、機械化が必定となる流れはできあがっているという。

また、農作業には年間でその作業をこなす適切な時期というものがあり、旬や鮮度などの諸要素にも配慮すると、時間にも追われることになり、それゆえに効率化もまぬがれえない。

どの切り口をとってみても、スローライフとはほど遠いのではないかとの感想をもつに至る顛末だった。

 

しかも、これらのことを象徴するような出来事に、酪農見学のほうで遭遇した。

まあ、こちらのほうは、田舎ののどかさもブレンドされた、ちょっと特異なシーンを目撃したというだけのものだったのだが、牛舎にお邪魔した際に、そこの酪農家の方が牛舎の清掃を行っていたのだが、牛たちを別の場所へと追い立てようとしていて、なかの一頭がグズってテコでも動かないという様子になっていた。

そこで、ふだんの地が出たのだろう、その酪農家のおやっさんが突然、牛の尻に跳び蹴りをくらわせたのだ。

 

刹那のことだったので、思わず笑ってしまったのだが、そのおやっさんもこちらに「あれ、いたの」といったご様子。

虐待というほどの様子ではないとはっきりとことわっておくが、というのも、蹴られた牛のほうも何食わぬ顔で、もぐもぐと口を動かしていた。

まったく動じた様子もなく、しかもその後で、「モー」と一声、鳴いていた。

これが、ふつうの風景なのだろう。

そして思った。

つまりは、そういうことなのだ。

地方に移住して、田舎暮らしをするとは、牛の尻に跳び蹴りをくらわせにいく、ということなのではないか。

 

冒頭の友人に、「跳び蹴りしたこと、ある?」と尋ねたら、「はあ?」という顔をしていた。