粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

【落語】蒟蒻問答/餅屋問答

落語のなかでも、よく知られた演題であるこのお噺し。江戸寄席で「こんにゃく問答」、上方落語では「もち屋問答」と呼ばれ、噺家のなかでも客ウケが良いとされる、華やかな名作といわれています。

登場する人物たちもみな個性的で、噺のスジもよく練られており、さらにはこの噺、話芸の多彩な仕掛けが随所に散りばめられた「仕方噺」の代表作ともいえる演目です。

こちらの噺も、寄席界隈の木戸口をくぐる最初の一話として、おすすめしたいネタとなっております。

 

◾️ あらすじ

噺は江戸を食いつめた極道者の八五郎が、上州安中に住む蒟蒻屋の六兵衛のもとに流れて来るところから始まる。

六兵衛も元江戸っ子で、若い頃、"呑む打つ買う"をし尽くして江戸にいられなくなり、この地に流れ着いた道楽者であったが、いまはまっ当に蒟蒻屋を営んでいる。

この六兵衛、面倒見がよく、似た境遇で頼ってきた八五郎を世話してやり、とりあえず自分のところに居候させてはいるものの、このままでは埒があかない。

八五郎はとうてい堅気の商売をやれる人間ではないが、八五郎の頭がたまたま丸かったのをいいことに、ならばと住職不在の地元の寺へ居座らせてしまう。

「あっしは経なんぞ読めませんよ」

「いろはにほへとに節つけて伸ばせばよかろう」と無責任きわまりない。

八五郎和尚ではおかしいから、それらしい名前を考えるも、まさか弁慶というわけにもいかないし、弁当ではなおまずい。

「どうだい、弁正あたりで?」

「ベンショウですかい。悪かねぇけど、さかさにすると、なんだか漏らしそうだな」

そもそもがテキトーである。

そんなこんなで、上州安中の薬王寺という寺にガラっぱち坊主が誕生した。

 

弁正和尚、もとより非常識で、べらんメェ調、とにかく僧にあるまじき不作法者である。

法衣は腕まくり、ドテラの胸をはだけて、無聊を託って酒を呑むことくらいしかやることがない。

教育係の寺男の権助が苦言を呈してもなんのその。せめて、ことばだけでも少しはお住持らしくしてほしいと懇願されて、それらしくするかと、酒肴に符牒を当てることに。

生臭(なまぐさ)物にはすべて隠語があるのだから、それでいいだろうと、酒は「般若湯(はんにゃとう)」、まぐろの刺身は「赤豆腐(あかどうふ)」、サザエが「拳骨(げんこつ)」、あわびは「伏鉦(ふせがね)」、かつおぶしは掻く(書く)と減るので「巻紙」、どじょうは泳ぎ方から「踊り子」、蛸(たこ)は「天蓋(てんがい)」、たまごは陽にかざして鮮度を確かめるから「遠眼鏡(とおめがね)」、または中に黄味(公)がおわすので洒落で「御所車(ごしょぐるま)」と滅茶苦茶である。

「おい、権助、天蓋を酢蛸にしてくれ。おめえもいっしょにどうだい」

ことあるごとに酒肴を用意させ、権助相手に酒のガブ呑み三昧で日が暮れてゆく。

それでもこの弁正住職、どうしたわけだか、ざっくばらんな和尚様と地元の評判は悪くない。世の中よくしたものである。

 

そんな折。

寺に訪ねてくる者があった。

「おう、葬式かい。ありがてぇな、もうかるぜ」

赤い顔した権助を応対に出させると、托鉢の若い旅僧が立っていた。

「愚僧は越前の国、永平寺、沙弥托善(しゃみ たくぜん)と申す諸国行脚、雲水の僧にござる。御門前を通行致すに、戒壇石(かいだんせき)に葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さずとある。禅家の御寺と心得、和尚ご在住ならば一問答願わしう心得、推参(すいさん)仕りました」

これを聞いて八五郎、青ざめる。

えらいことになった。問答を挑まれて断るわけにはいかない。負ければ相手に寺を譲って追い出されることになる。

居留守を使って、いっときは追い返したものの、相手は和尚が戻るまで毎日でも訪ねる所存の一点張りだ。

八五郎弁正、あっさり観念して夜逃げを決めこみ、先立つ物をと、権助に寺の金目のものを道具屋に売ってこいと大騒ぎする。

そこへ折よく蒟蒻屋の六兵衛が様子見にやって来る。

事情を聞いた六兵衛。

「寺の品は私物じゃねぇんだ、無闇に処分しちゃあ、いけねぇよ。問答はおれが引き受けよう」

「どうするんです? 親分。問答の心得でもあるんですかい?」

「そんなもん、あるかい。だんまりで通すのよ。するってぇと、相手もあきれて帰るだろうよ。帰らなかったら、あたまから煮え湯でもぶっかけてやるさな」

「なるほど。とっちめたって、裏に埋めるところはいくらでもありまさぁな」

乱暴きわまりない策ではあるが、八五郎、起死回生の思いで安堵する。

 

翌日。

ことばにたがわず沙弥托善、問答に訪れる。

案内に際して八五郎、托善に「大和尚は口がきけず、耳も聞こえない」と言い含める。六兵衛からさずけられた策だ。

一方の六兵衛、頭に帽子(もうす)をいただき、手には払子(ほっす)をたずさえて、半眼、坐禅観法寂莫とした大和尚の出立ちで法壇に控える。

托善、唐礼ののち、問答にとりかかった。

「一不審もて参る。法華経五時の説法は八遍にとじ、松風の二道は松に声ありや、松また風を生むや。有無の二道は禅家悟道にして、いずれが是なるや、いずれが非なるや。お答え如何に」

六兵衛、無言、反応せず。

「いま一不審もて参る。法海に魚あり。尾もなく頭もなく、中の支骨を断つ。この儀如何に。お答えを、お答えをッ!説破ッ!」

六兵衛、無言、反応せず。

托善、これは禅家荒行のうちの無言の行かと察し(誤解し)、ならばこちらも無言にて問わんとする。

左右の親指と人差し指を合わせて丸い輪をつくり、胸元からぐっと前へ突き出した。

〈この儀、なんとする?〉

六兵衛、手にした払子を衿首に差して、両腕を伸ばし、大きな輪を描く。

〈ハッ! 畏れいりました〉

托善、平伏ののち、こんどは十本の指を立てる。

六兵衛、右手を突き出し、五本指で応える。

〈ハ、ハーッ!〉

托善、またも平伏。次に右手の甲を前に向け、三本指を突き立てる。

すかさず六兵衛、右の人差し指で右の眼の下を押さえて《あっかんべぇー》。

托善、おそれいったとほうほうの体で逃げ出した。

 

脇で一部始終を見ていた八五郎、なにがなんだかわからない。門前まで托善を追い、引き留めて仔細を聞く。

「大和尚の〈ご胸中は?〉とお尋ねいたしましたところ、《大海のごとし》とのお答え。〈十方世界は?〉と聞けば、《五戒で保つ》とおっしゃる。及ばずながらいま一問答と、〈三尊の弥陀は?〉と問えば、《目の下にあり》とのお答え。当山の大和尚はまこと博学多才。拙僧の到底及ぶところではございません。両三年修行して参ります。ご免」

本堂に戻ると、一方の六兵衛、なぜだかカンカンに怒っている。

「どういうこってすか?」と八五郎が尋ねると、「野郎は、このあたりの乞食坊主だろうよ」という。

なぜって、「あの野郎、おれが蒟蒻屋だってこと知ってやがったのよ」

「そうなんですかい?」

「そうよ。〈おめぇのとこの蒟蒻はこれっぱかしか〉って手つきでケチつけやがった。いまいましいから、俺んところは《こんなに大きいや!》ってやってやったら、こんどは〈十丁でいくらだ?〉ときやがる。《五百文(もん)だ》とやったら、しみったれ坊主め、〈三百文にまけろ〉ってえから、《アッカンベー》してやった」

 

◾️ 落語のことば補説

▼ 上州安中

現在の群馬県安中市

▼ 呑む打つ買う

大酒を呑み、博打を打ち、女郎を買う(女遊びをする)。男の三大道楽といわれ、三大しくじりともいわれる。道楽にふけり、身持ちをくずすというのが、落語のなかに出ばってくる男どものよくある身上として再三語られる

▼ ドテラ(褞袍)

防寒・寝具用の大きめに作られた、綿を厚く入れた広袖の着物

▼ 寺男(てらおとこ)

寺で雑用する下男。僧侶ではない

▼ 住持(じゅうじ)

宗門から派遣されて寺を管理する職分をさすことばで、「住職」も同意。寺の所有者ではない。ということで、勤行に問題があれば追い出されることもあり、その寺が「無住」になることもままあったという。ちなみに「坊主」は「僧坊のあるじ(主)」という一般呼称。職分をあらわすことばではない。「和尚」ということばは元来、高僧の敬称で、日本では時代を経て一般呼称となったが、じつは宗派によって発音が異なるそうだ。この噺に出る禅宗、そして浄土宗では「オショウ」、天台宗では「カショウ」、真言宗では「ワショウ、ワジョウ」と呼ぶそうである

▼ 符牒(ふちょう)

同業者内、仲間内でのみ通用することば、合言葉、隠語、暗号。落語ではことば遊びとして、よく引き合いに出される

▼ 越前国(えちぜんこく)

現在の福井県北部にあたる、北陸の要所にあった国。かの国で有名な禅寺である永平寺は禅師・道元が開山した

▼ 沙弥(しゃみ)

7歳以上20歳未満で、仏門に入り髪をそって十戒を受けた男子出家者をいう。修行未熟な僧の意

▼ 雲水(うんすい)

行雲流水のごとく諸国を行脚して教えを乞う修行僧

▼ 戒壇石(かいだんせき)

寺の門前に置かれた「葷酒山門に入るを許さず」などを記した石碑のこと

▼ 葷酒(くんしゅ)

ニラ、ニンニクなどの臭くて精のつく野菜、および酒を指す

▼ 問答(もんどう)

仏法に関する修行者の質問と師の解答。他宗派と異なり禅宗に特徴的なのは、以心伝心のひらめきを重んじ、抽象的かつ簡潔であることをよしとしたところだそうだ。蒟蒻問答でのやりとりは、禅宗だからこそ成立したといってよい。綿密な言語による具体的な授受を旨とする他宗派ではこうはいかなかっただろう

▼ 推参(すいさん)

招かれていないのに自分のほうから押しかけて参上する際の謙譲語

▼ 帽子(もうす)

禅宗の僧がかぶる頭巾。定型はないようだが、烏帽子様が多い

▼ 払子(ほっす)

獣毛、麻などの束を柄につけた仏具。本来は蠅を追い払うための道具だったという

▼ 坐禅観法寂寞(ざぜんかんぽうじゃくまく)

座禅を組み、悟道を黙想すること静かなり、との表現。この噺における「口ならし」「言い立て」(名調子、名フレーズ)の一節から切り取った文句である。先だてのあらすじでは割愛させてもらったが、落語の噺のなかには、その噺固有で使われる決まり文句のような箇所があり(無い噺もある)、蒟蒻問答の場合だと「高麗縁の薄縁は雨漏りのために茶色と変じ狩野法眼元信の描きしかと怪しまるる格天井の一匹龍は鼠の小便のため紛失と相成り欄間の天人蜘蛛の巣にとじられ幡天蓋は朝風のために翩翻と翻り、正面には釈迦牟尼仏、左の方には曹洞禅師箔を剥がし煤をあび、一段前に法壇を設け一人の老僧頭に帽子を頂き手には払子を携え眼半眼に閉じ座禅観法寂寞として控えしは当山の大和尚、とはマツカイ(真赤)な偽り、何にも知らない蒟蒻屋の六兵衛さん」(京須偕充『落語名作200席(上)』より引用)と噺家がまくしたて、そこで客がワッと盛り上がる。アナウンサーが話すような、いわゆる「早口ことば」にあたるものだが、噺家が口調や話すスピードの確かさを試す常套句でもあり、前座駆け出しが練習のためによくこういった言い立て文句のあるネタを高座にかける。有名な「寿限無」は典型的な口ならしネタである

▼ 唐礼(とうれい)

中国の儀礼を唐礼といい、これに対して日本の和礼がある。唐礼には道教の考え方が反映されており、和礼はこの要素を除いたものだそうだ。禅宗では唐礼をもって僧尼の礼懺修法としたそうである

▼ 一不審もて参る(いっぷしんもてまいる)

禅問答に取りかかる際の語句。「ひとつ疑問を呈します」といった意味

▼ 説破(せっぱ)

禅問答において質問に応じる語句。この噺では「承れ」「よく聞け」といった意味で、相手を言い負かそうとする受けことば

▼ 十方世界(じっぽうせかい)

四方(東西南北)と四維(西北・西南・東北・東南)と上下(天地)の世界という意

▼ 五戒(ごかい)

仏教語。不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)の戒律をさす

▼ 三尊の弥陀(さんそんのみだ)

阿弥陀仏・観世音菩薩・勢至菩薩をさす

▼ 拙僧(せっそう)

僧侶が自分のことをへりくだっていう表現

 

◾️ 鑑賞どころ私見

当ブログ名に冠させていただいた、もうひとつの名作、関東では「蒟蒻問答」、関西では「餅屋問答」と呼ばれる演目で、またぞろ私事恐縮ですが、こちらは自分が初めて寄席を観覧したときに高座に掛けられていたネタで、思い出と思い入れ深き噺ということで、ご紹介させていただく。

江戸で「こんにゃく」、上方は「もち」、両者に共通するのは"かたくない"ということで、つまりは「ふにゃふにゃ問答」、通常であれば堅っ苦しいはずの仏教の問答が"腰くだけ"になっているのを笑うというおはなしである。

 

この噺、落語のほうでは「仕方噺」といって、噺家の所作・仕草・身振りで見せる演題である。

その代表作ともいえる一品で、昭和の時代に落語のテレビ放送が始まった際にはよく演目にあがったネタだったそうである。ゆえに年配の御仁には、ご存じの方々も多いかもしれない。

仕方噺なので、たとえば音声だけの鑑賞には不向きといえ、もちろん文字で読むのにも限度があり、ましてや先ほどの当方の稚拙なあらすじではどうあっても力及ばずなので、動画ないし、ぜひに噺家の実演を味わってほしい。

サゲ前の丁々発止は、この噺家ならどんなふうにやるんだろうと見比べる意味でも、一見の価値ありとつけ加えておく。

 

ところでこの噺、旅僧が「たのもう!」と門前に訪れるシーンを間仕切りとして、便宜的に前半・後半に分けてストーリーを眺めてみると、どうしても問答のある後半部に目がいってしまいがちだが、前半の八五郎と寺男の権助とのやりとりのくだりも、伏線とその後のスジを演出するものとして、じつは重要なパートである。

落語はことばの芸というだけあって、この噺にかぎらず、ほかの噺でもよく"言い換え遊び"をする。

よく耳にするかもしれない「掛けことば」、あるいはダジャレなどもこれに含まれるが、この噺にも出てくる「符牒」「隠語」のように、日常茶飯事を比喩、暗喩して遊ぶところも落語の聴きどころといえるだろう。

この噺では俗物をそれらしく仏教語に仕立てあげようとしているわけだが、ほかの噺でも、このような頓知(とんち)が効いたことばも多く出てくるので、ご賞味されることをおすすめしたいところである。

ともすれ、伏線に話を戻すと、前半で酒を般若湯と言い換えるような語りのトンチが、後半の無言の問答のうちで生じる"勘違い"を予見させる構図となっているわけだ。

この噺の聴きどころとしては、後半はわりと定型化しているので、個人的には前半部を噺家たちがどのように聴かせてくれるのだろうか、というのを楽しみに鑑賞させてもらっている。

 

さて、この噺。講評などでは、庶民が権威や知識人などに対して抱いている感情、居丈高で高尚なところを笑い飛ばす心意気などが反映された噺とよくいわれる。

確かにそうなのだが、個人的には"すれ違い"の面白さをただただ正面から忌憚なく笑えばいいのではないかと思っている。

勘違いとすれ違いで笑いをとる王道中の王道ばなしなわけだから、その見当違いをそのまま楽しめばいい。

思えば、人はみな十人十色、同じ出来事に居合わせたとしても、感じることも考えることも、とどのつまりは人それぞれなわけである。

どこまでいっても主観は主観。

自分がそう思って話していることも、相手がそのように思って受けとめているわけではないし、逆もまた然りである。

要するに、人と人のあらゆる会話や日常の交差のなかに、主観同士の勘違いとすれ違いというものはすでに、つねに潜んでいるわけだ。

人の交わりは、そもそもが勘違い、そもそもがすれ違い、ということなのかもしれない。

そしてまた、人というものはそういった勘違いやすれ違いにほだされて、思わず笑ってしまうという性質も持ちあわせている。

ならば人の交わりとは、そもそもが"笑ってしまう"ものなのではないか。

愚説で押し切らせてもらったが、誰しも"にらめっこ"で笑ってしまう、これはそれに近い。

そして、にらめっこは真剣さが増せば増すほどに笑わずにはいられなくなる。

蒟蒻問答はそんな含みを感じさせる噺なのではないかと愚考するものである。

この噺、《あっかんべぇ》ならぬ、そんな"あっぷっぷ"な噺しといえるのかもしれない。

 

◾️ YouTube 視聴

[*2024年4月現在、視聴可能な動画となります]

▼ 映像あり

・柳家小さん[五代目]・立川談志[七代目]・柳家小三治[十代目]の三人落語(激レア映像です):https://www.youtube.com/watch?v=SB0bEbjZ8sI

▼ 音声のみ

・桂歌丸:https://www.youtube.com/watch?v=dFNnbfmzC2A

・古今亭志ん朝[三代目]:https://www.youtube.com/watch?v=P0fKYXPEwIQ

・古今亭志ん生[五代目]:https://www.youtube.com/watch?v=BvG6YjAkaz4

・柳家小三治[十代目]:https://www.youtube.com/watch?v=F9GeRlZxZ-k

・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=XTDPn_kKgG0

 

◾️ 参照文献

・矢野誠一『落語手帖』(講談社+α文庫、1994年)

・京須偕充『落語名作200席(上・下)』(角川文庫、2014年)

・榎本滋民 著、京須偕充 編『落語ことば・事柄辞典』(角川文庫、2017年)

・立川志の輔 選/監修、PHP研究所 編『滑稽・人情・艶笑・怪談古典落語100席』(PHP文庫、1997年)