年齢とともに、時間が体感として早く感じられるようになるといわれる。
同じ1時間でも若い人ほど進みが遅いと感じられ、歳をとるほどに時間の進みが「あっという間」に感じられるというやつである。
たしかにそうなのかもしれないと最近、とみに感じる。
仕事に出かけても、あっという間に昼が来て、あっという間に退社時間が来るという感覚が強くなってきていて、油断しているとまったく仕事が進んでいない、なんてこともありうる。
休日も似た感じで、油断しすぎてすでに夕方、晩飯を食べたらもう一日が終わっていた、といった体感である。
さらには、一週間、ひと月、一年の進みも早く感じられて、いま現在ならばさしづめ、梅雨に入っていたとはつゆ知らず、というのが正直な実感である。
ところで、このような時間にまつわる体感の問題といえるのか、ちょっと自分では判別のつかない事例がある。
どういうものかというと、映画やテレビ番組、映像作品、動画などを鑑賞する際に、年々、長いものを見れなくなってきている、というものである。
たとえば、2時間の映画をいちどきにぜんぶ観るというのがキツいと感じてしまうようになった。
テレビ番組の場合はたれ流しが多いので、そこまで意識していないが、でも番組を最初から最後まできっちり観るなんことは、まずない。
いちばん顕著なのがユーチューブで、まずは時間表示の部分を見て、そもそも15分を超えるような動画は基本的に再生しない。
よほど興味をそそるタイトルやサムネの動画であっても、早送りすることを前提として再生するので、要するに、5分から10分程度の動画でないと、まず観る気がしないという具合である。
これを逆からいうと、5分、10分の動画をサクサク再生することができるので、だからユーチューブのほうをついつい観てしまうのである。
これは、試聴のための集中力をキープさせる耐久性が、年々、衰えていってるということなのだろうか?
もとい、これって、年齢の問題なんだろうか? とも思う。
若い人たちのあいだで流行っているショート動画などからうかがい知れるのは、要するに、時間感覚そのものがファスト化しているということなのだろう。
プロセスは必要なく、いきなりの結果提示を求めている、ということなのかもしれない。
自分にとって必要なコンテンツであっても、それにながながと付き合う筋合いは毛頭ないと思っていそうである。
情報過多の時代だ。そうでも思わないと捌ききれないのだろう。
ながったらしい動画などをダラダラと観せられるとイライラさせられる感覚は、じつはむかしからあったものだとも思う。
ネットやゲームなどのロード時間が遅滞すると出てくる、あのイライラである。
つまり、年齢は関係なく、ちゃっかりとファスト化は進行していたというわけだ。
で、ここで一旦、立ち止まって、このファスト化の行き着く先はどのようなものになるのか、想像してみる。
ファスト化を突き詰めれば、たとえば恋愛映画などは「アイラブユー」「ミートゥー」「完」と秒殺で終わるだろう。結果だけ求めているのだから、これが最短だ。
これのどこが面白いのかと思いつつ、最速を目指す時点で、そもそも、そんな味も素っ気も求めていないのだろうから、しょうがない。
じつは、この最速の恋愛映画を地でいく、実際にあった、音楽のムーブメントを知っている。
80年代に世界中の音楽業界が爛熟期を迎えた頃の、ロック/ポップスのジャンルで起こった、ギタリストのテクニック至上主義、「速弾き」ムーブメントだ。
詳しい人からのお叱りを覚悟しつつ、このムーブメントの紹介もファスト化、簡略化して書かせてもらうと、「①ロック」→「②ハードロック」→「③ヘヴィメタル」→「④スラッシュメタル」→「⑤デスメタル」とジャンルが多岐化していくなかで、末端へと先鋭化していく背景に、先ほど挙げた「テクニック的に、いかに速弾きをキメるか」という課題がギタリストに要請されるという雰囲気が醸成され、リスナーもそれに引きづられるという空気が当時できあがった。
どういうことかというと、商業主義化で曲調や曲がもつ内容などが売れ線パターン化し、似たような曲で飽和状態となるなかで、その状況を打破せんがごとく、ただただ「速い曲」がカッコイイとされ、転じてカッコイイ曲の選別条件の筆頭に「速さ」があがる時代というのがたしかにあったのだ。
とにかく速ければいい。
「速弾きできないやつなど、ギタリストではない」ぐらいの勢いは、当時あったような気がする。
こちらはべつに、ギタリストでもなんでもないが、リスナー側としても、好んで「速い曲」を追い求めていたと思う。
じつはこの速弾きムーブメント、さきほどの「①②」のあいだと、「③④」のあいだで顕著に起こるのだが、「②③」のあいだの変遷と「④⑤」のあいだの変遷には、別の要素が絡んでくる。
「②③」の変遷では、速弾き化への反動とでもいうのだろうか、ジャンル名が「ヘヴィメタル」というだけに、「重くて激しい」方向に人々の耳が向かう。ただ速いだけでは飽き足らなくなったわけだ。
そしてまた「③④」で「徹底的に速く」という方向へと向かうのだが、お話はここからである。
次に起こる「④⑤」の変遷では、個人的な見立てでは、なにか素っ頓狂なことが起こったのではないか、と思っている。
どういうことかというと、速弾きの究極系ということで、「曲が速く終わる」いや「曲を早く終わらせる」という現象が起きたのだ。
たとえば、それまでならば、「ぎャあぁぁぁぁぁー(叫び)、(轟音)、スタスタスタスタ(ツーバスの音)」「ぎャあぁぁぁぁぁー(叫び)、(轟音)、スタスタスタスタ(ツーバスの音)」くらいの長さだったのが、「ぎャあ、スタ」で完結する、ぐらいの激しい転換である。
それまでそのバンドが3分程度の曲を作っていたとすると、30秒以下で終わる曲を大量生産するような感じといえばよいだろうか。
だから、当時リリースされたアルバムはやたらと曲数が多く、50曲収録なんてのもざらにあった。
これはいったい、どういうことなのだろう、と当時も思った次第である。
あまりにも速く弾きすぎたので、曲が早く終わったんだぞ、というバンド側からのアピールなのだろうが、なにか煙に巻かれた感じもする。
速弾きとはギターを速く弾くことであって、曲が早く終わることではない。
うん、そうだよな、それであってるよな。
いや、まてよ。
あまりにも高速すぎて、俺の耳がついていけなかったのか?
んな、アホな。
だが、ありえるかもしれない。
あの30秒間のなかに、それこそ、すさまじい数の音符を叩き込んでいるのかもしれない……。
この頃は、ほんとうに曲の内容などはどうでもよく、こんな馬鹿馬鹿しいことのほうに興味をもっていかれていたものである。
このことを踏まえて、もう一度、ファスト化の行く末を想像するに、先ほどの最速の恋愛映画ではないが、いずれ映画本編が必要とされなくなって、むしろトレイラーのようなものを映画本編のごとく観るといった時代が来るのだろうか。
恋愛映画なのに情緒もへったくれもないが、いさぎよいことこのうえないことだけはたしかだ。
このいさぎよさ、もしほんとうに最速の恋愛映画が作られるようであれば、従来の恋愛映画が求めていたような企図とはまったく別のなにか、が生まれるのかもしれない。
が、まったくもって観客の求めているものを無視した内容になりそうではあるが、いったい、どういうものになるのかと気になるぶんだけ、案外とおもしろいことになるのかもしれない。