粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

一輪咲き

少々、残念なことがあったので、ここにしるしておきたい。

今年の夏も終わりにさしかかっている。

この夏の終わりの、なんともいえない物哀しい風情というものが、いったいどこからくるのだろうと、ふと疑問に思うものである。

年初から徐々に気温が昇っていき、暑さのピークを過ぎたことから、これに世の栄枯盛衰をかさね合わせる、などという大仰なことを連想させられるからだろうか。

まあ、なんとなく、夏の終わりはそういった"盛りを過ぎた"情緒をそそるような空気を孕むように感じられる。

 

さて、そんな折に輪をかけて残念なことがあったわけだが、それは、自分が住む地域の晩夏の花火大会が今年をもって終了してしまったことである。

花火大会といったが、大会と呼称するのもおこがましい規模の、ほんとうにささやかな「花火小会」ではあるのだが、これが風情があって、なかなかによかった。

が、これが終了とあいなった。

 

この花火小会、なにが良かったかというと、地区の自治会が毎年この時期の夏祭りの最後に、少ない予算の関係だろうが「たった5分間だけ」、およそ10発程度の打ち揚げ花火をあげるのだ。

20:00に始まって、20:05に終了する"花火大会"である。

この5分間、近所の人たちが皆、夜空を見上げる。

これが、なんというか、わるくない風情なのだった。

 

都会とも田舎ともつかない都市部から離れた郊外の、あるいは中間部の、たとえば新幹線の車窓からはあっというまに通過して、気にも留まることのない地域の、その小さな地区だけのとりとめもない数発の花火である。

三大花火大会や隅田川や淀川などの大きな花火大会の夜空を咲き誇る豪華絢爛、百花繚乱たる圧倒的な迫力などはもちろんない、侘しいばかりの一輪咲きである。

それも数本ぱかし、咲いたら、あっという間に散る。

あがったと思ったら、サクッと終わる。

 

だが、それがよかった。

なぜなんだろうか、豪華な花火大会よりも、なぜかそのほうが、自分の気に入るところだった。

花火を見上げるときの情緒的なことは人それぞれだし、高揚する人もいれば、感傷的になる人もいるだろうが、ここではそういう情感うんぬんではなく、あっという間に終わるところが、花火の本質をよりくっきりと知らしめているようで、潔くて好きだった。

なけなしの予算でも、数発の花火を打ち上げようという自治会の人たちの心意気もよいではないか。

が、ここには記さないが、諸々の事情でもって、先日、最後の花火が夜空に消えていった。

 

来年はあがらないと思うと残念だが、そこは諸行無常である。

そうであっても、やっぱり、あの一輪咲きの美しさを手許に取っておきたいという我執を拭うことはできなかった。ので、ここに残しておこうと思う。

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(2023年8月26日撮影)

 

写真を見て、なぜか合掌したくなった。