粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

重複

重複を「じゅうふく」と云う人たちがいる。

 

間違いではない。

いや、正しいのだ。

だが一方で、それは「ちょうふく」でしょ、と腹のなかで口ずさむ自分がいる。

 

思い出がある。

小学生の頃だったと思う。

漢字テストで満点だと踏んでいた答案に、返されたとき、ひとつ、バツがついていたのだ。

 

それが「重複」だった。

「じゅうふく」と解答したら、バツがついていたのである。

 

ショックだったのだと思う。

ゆえに、なぜか、その出来事を鮮明に覚えている。

赤字で「ちょうふく」と書かれていた。

 

別段、当時の先生を責めるつもりはない。

なぜなら、それで納得したというか、腑に落ちたからだ。

そして、どういうわけか、ちょっとだけ「大人になれた」という感覚が残った。

大人は「じゅう」を「ちょう」と読むのだと感じたようである。

それ以来、自分のなかでは、重複は、ちょうふくである。

 

しつこいようだが、じゅうふくは、間違いではない。

テレビのアナウンサーがそう読み上げているのも聞いたことがあるし、有識者と呼ばれるような人たちのなかでも、そう使っているのを聞いたこともある。

使う人も、そこまで意識していないのだろうとも思う。

でも、なんでだろう、じゅうふくと聞くと、なんとなく、「つたないな」と感じてしまう自分がいる。

 

ことわっておくが、これは偏見であり妄言である。

きわめて個人的な、箸にも棒にもかからない些細なこだわり、というよりは拘泥である。

 

だが、こうした小さな拘泥のなかにこそ、その人なりの矜持やら美意識やらが本人のあずかり知らぬところで醸造されていくのだろうなと、ふと思った。