粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

【読書】当たり前だと思うことに慈しみある「なぜ?」を向ける、元祖つぶやきの書 ──『柿の種』(寺田寅彦)

個人的に問答無用の推しの一冊で、当ブログのコンセプトの一端ともなった本である。良本中の良本、"本たるべき本"とでもいえようか、あまり本に馴染みのない人でもすっと入り込める短文集で、本の虫や活字中毒者の方々には一服の清涼剤のようなものとして読める、大正時代を生きた科学者が綴った、現代風にいうのならば、さしづめ「元祖つぶやき集」のようなおもむきの本。

 

◾️ 出版社案内文

日常のなかの不思議を研究した物理学者で、随筆の名手としても知られる寺田寅彦の短文集。大正9年に始まる句誌「渋柿」への連載から病床での口授筆記までを含む176篇。「なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の願いがこめられている。解説 池内了

 

◾️ 私的読みどころ

このブログを書き始めてから、ネタ探しを兼ねて、妙に以前に読んだ本に意識が向かうようになった。

そんななかで、真っ先に思い出したのがこの本、寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫、1996年)である。

 

この本とのつき合いは古い。

なんとはなしに、思い出したように幾度も手に取って読み返す本のうちの一冊である。

特段、出会いやきっかけに思い出のある本というわけでもない。

思い入れはあるかもしれないが、わりかしあっさりとしたつきあいであるように思う。

が、どういうわけだか、ふと思い立って、読み返すことの多い本である。

なんというか、読むと、個人的にこころが整う感じがする不思議な本なのである。

 

これも個人的なものだが、いままで読んできたエッセーのたぐいのなかでは最高峰。随想の真骨頂をみる思いがする本だと感じている。

重ねて個人的見解だが、エッセーは本職の作家や文学畑の人たちよりも、その他の職を本業とする人が書いたもののほうがおもしろい気がする。寺田寅彦も本職は科学者である。ま、これも個人の好みの問題ではあるが。

個人、個人とうるさかったが、最後に個人的に推しの一冊ということで落としどころとする。

 

この本、エッセーではあるのだが、ほんとうに短い、おりおりのことばの断片、短文で織られている。

ので、現代風にいうのならば、さしづめ「元祖つぶやき集」のようなおもむきである。

それゆえに読みやすい。

そして、そんなつぶやきだからこそといおうか、妙に心に残る。

本職が科学者である人が書いただけに、日常のさまざまな出来事や事象に接して、ちょっとした「なぜ?」という探究心を振り向けていて、さらには、その滋味あるまなざしがじんわりと心地よかったりする。

この本にはたとえば、こんなつぶやきがおさまっている。

 

眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分で自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう」(大正十年三月、渋柿

 

最初にこの本を読んだときからずっと、こころのなかに留まっている一節だ。

こんなつぶやきもある。

 

鳥や魚のように、自分の眼が頭の両側についていて、右の眼で見る景色と、左の眼で見る景色と別々にまるで違っていたら、この世界がどんなに見えるか、そうしてわれわれの世界観人生観がどうなるか。……いくら骨を折って考えてみても、こればかりは想像がつかない。鳥や魚になってしまわなければこれはわからない」(大正十年四月、渋柿

 

油画をかいてみる。正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とは違うように描かなければいけないということになる。印象派の起ったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない」(大正十年七月、渋柿

 

夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページに来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。あらゆる「同情」の中の至純なものである」(大正九年十一月、渋柿

 

猫が居眠りをするということを、つい近ごろ発見した。その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見する機会はあるものと見える。これだけは心強いことである」(大正十年八月、渋柿

 

新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある」(大正十年十月、渋柿

 

白い萩がいいという人と、赤い萩がいいという人とが、熱心に長い時間議論をしていた。これは、実際私が、そばで聞いていたから、確かな事実である」(大正十年十一月、渋柿

 

大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」(大正十二年三月、渋柿

 

味わいのある本とは、こういう本のことをさすのだと思う。

 

◾️ 書誌情報

出版社:岩波書店 (1996/4/16)|発売日:1996/4/16|言語:日本語|文庫:304ページ|ISBN-10:4003103777|ISBN-13:978-4003103777

▼ 目次・所収

自序

短章その一

短章その二

注解

解説(池内了)