都会の雑踏や繁華街の喧騒からはずれてふと裏路地などに入ったときに、ふいにあらわれたヒト気のない濃密な静寂に呑まれて、「この世界に自分ただ一人だけが存在している」といった感覚に打たれた経験はないでしょうか。
もしも、そんな静謐で、ある意味で"神聖な"感覚を味わったことがあるのならば、これから紹介する星野道夫『旅をする木』(文春文庫、1999年)という本は、ふたたびその感覚を想起させるような触媒になるかもしれません。
この本で綴られる著者のアラスカでの生活、アラスカの大地とそこに生きる人びとや生き物たちをありのままの姿で活写した虚飾のない文章は、どれもほんとうに"美しい"。
一読すれば、真に美しい文章とはいかなるものかを堪能できる読書体験が得られるかもしれません。
◾️ 出版社案内文
──誰もがそれぞれの一生の中で旅をしているのでしょう。
多くの人に"人生を変えた本"と紹介された、永遠に読み継がれるべき1冊。
あの頃、ぼくの頭の中は確かにアラスカのことでいっぱいでした。まるで熱病に浮かされたかのようにアラスカへ行くことしか考えていませんでした──。広大な大地と海に囲まれ、正確に季節がめぐるアラスカ。1978年、26歳でアラスカに初めて降り立った時から、その美しくも厳しい自然と動物たちの生き様を写真に撮る日々が続いた。その中で出会ったアラスカ先住民族の人々や、開拓時代にやってきた白人たちの生と死が隣り合わせとなった生活。それらを静かでかつ味わい深い言葉で綴った。「新しい旅」「春の知らせ」「オオカミ」「海流」「白夜」「トーテムポールを探して」「キスカ」「カリブーのスープ」「エスキモー・オリンピック」「夜間飛行」など、33編を収録。
◾️ 読みどころ私見
仕事が深夜に終わるので、最寄駅から自宅まで、近所の夜道を歩いて帰る。
田舎道なので、途中に「ひと気」が忽然と消える場所があって、そこを通ると、ときおり「この世界に自分ただ一人だけが存在している」という感覚に陥ることがある。
ふだんは仕事のことや世事のこと、周囲の人のことなど、せわしなさに意識をもっていかれて、そんなことを感じて歩いて帰ることはほとんどないが、ごくまれに、こういう不思議な「天上天下唯我独存」を思うことがある。
そんな感覚に身をゆだねたときに、かならずといっていいほど思い出す文章がある。
星野道夫『旅をする木』(文春文庫、1999年)に収められている「オオカミ」という話だ。
星野道夫さんは写真家で、アラスカに根を張り、アラスカの「生きもの」を撮ってまわっていた人だ。
個人的に、味わいある名文家だと思っている。
星野さんの文章を読むと、「自分とこの世界との距離」を想起させられる。それは遠いようでいて近く、近いようでいて遠い、そんな関係性で、星野さんはその絶妙な距離感を透徹なまなざしで滋味のある筆致でつづっている。
少々長くなるが、「オオカミ」から引用したい。
「ぼくはこれまでほとんど誰にも話したことがないようなある思い出を、このルース氷河にもっています。それはこの氷河を初めて訪れたもう十年以上も前のことです。昨夜のようにスキーを駆ってベースキャンプから氷河へ滑りおりていった時のことでした。クレパス帯をたっぷりと覆う雪原の上に、一条の足跡がついているのを見つけました。それはマッキンレー山の方向から、ルース氷河を下ってゆくようにどこまでも続いているのです。一体何の足跡だろうと思って近づいてみると、それはオオカミでした。なぜこんな氷河地帯にオオカミの足跡があるのか、どうしてもわかりません。今日の一羽のホオジロのように、どこかで迷い込んでしまったのでしょうか。それとも四〇〇〇〜六〇〇〇メートルのマッキンレーの稜線を越えて旅をしてきたのでしょうか。それはあまりに不可解で、そして物語のように出来過ぎていると、ぼくは誰かに話すことがなぜかできなかったのでした。可笑しなもので、自分の記憶の中だけにしまった思い出というのは、不思議な力を持ち続けるものですね。ぼくは日々の町の暮らしの中で、ふとルース氷河のことを思い出すたび、あの一本のオオカミの足跡の記憶がよみがえってくるのです。あの岩と氷の無機質な世界を、一頭のオオカミが旅をしていた夜がたしかにあった。そのことをじっと考えていると、なぜか、そこがとても神聖な場所に思えてならないのです」
やはり、この世界は奇蹟が折り重なってできているのだと思う。
◾️ 書誌情報
出版社:文藝春秋 (1999/3/10)|発売日:1999/3/10|言語:日本語|文庫:256ページ|ISBN-10:4167515024|ISBN-13:978-4167515027
▼ 目次・所収
Ⅰ 「新しい旅」「赤い絶壁の入江」「北国の秋」「春の知らせ」「オオカミ」「ガラパゴスから」「オールドクロウ」「ザルツブルグから」「アーミシュの人びと」
Ⅱ 「坂本直行さんのこと」「歳月」「海流」
Ⅲ 「白夜」「早春」「ルース氷河」「もうひとつの時間」「トーテムポールを捜して」「アラスカとの出会い」「リヤツベイ」「キスカ」「ブッシュ・パイロットの死」「旅をする木」「十六歳のとき」「アラスカに暮らす」「生まれもった川」「カリブーのスープ」「ビーバーの民」「ある家族の旅」「エスキモー・オリンピック」「シトカ」「夜間飛行」「一万本の煙の谷」「ワスレナグサ」
あとがき
いささか私的すぎる解説(池澤夏樹)