落語の数ある噺のなかにもヒーローものとでもいえる噺がいくつかあります。この噺はそんなヒーローもののなかでも出色したでき栄えの傑作となります。
落語の世界で語られるヒーロー(あるいはアンチ・ヒーロー)とは、どのような人物なのか? そして演題に冠された「居残り」とは、いったいどういうことなのか? まずはこの疑問をとば口に、このお噺しを一聴してみることをおすすめします。
◾️ あらすじ
胸に患いをもつ佐平次という遊び人。
この病の保養には、潮風に陽光、魚介も美味い、海の近くがいいということで、仲間三人と連れ立って品川の女郎屋(じょろうや)へあがるところから噺は始まる。
まずは仲間とどんちゃん騒ぎ。
さんざん呑み食いして豪遊したあげく、夜明けとともに仲間の三人は先に帰して、佐平次だけが一人残ることに。
この佐平次、じつは腹に算段があった。
安い割り前で品川遊びをしようと連れ出した三人の仲間には「ここの払いはおれがみるから」と虚勢を張って、代わりに元の割り前は佐平次の老いた母に渡してやってほしいと虚心坦懐言い含める。
勘定の心配をしてうしろ髪ひかれる仲間をよそに、佐平次自身はどうするのかというと、当分のあいだこの品川にどうにかこうにか長逗留してやろうと画策していたのだ。
あれだけ呑み食いしたにもかかわらず、先立つものはもとより持ちあわせていない。つまりは無銭飲食、無銭遊びの確信犯で、しかも大迷惑にも転地保養とばかりに同じ店に居座ろうというのだから、並の神経ではない。
一人残って朝寝坊を決め込む佐平次。
勘定の催促に来た女郎屋の若い衆に起こされたのは、もう陽も傾き始める頃合いだ。
「じきに宵の口だな、若いシよ。迎え酒といこうかい。ちょいと頼むよ」
「なんだい? 勘定かい。心得ているとも。ただ、待ちねぇ。おれはつなぎだ、ゆんべの三人がまた来るよ」
「ここだけのはなし、あの三人は実入りのいい商売してるんだ、金のなる木だよ。つかまえておきな。損はさせないよ。それまで野暮はいいっこなしだ」
景気のいいことをさんざんのたまったあげく、乗せるに乗せて肝心なところは煙に巻く。会計がどんどん後まわしになってゆく。
じきに夕暮れのかき入れどきになり、妓楼(ぎろう)は大にぎわいの大忙し。払いのこともうやむやに。
佐平次はといえば、当然の顔して風呂に入り、鰻をつまみ、若い衆にも調子よく馳走したりと、昨日とあいかわらずの椀飯振舞い。
そんなこんなで、あっという間に、また翌朝。
三人さん、いらっしゃいませんでしたが、と聞かれれば、「火急の用向きなぞ出たんだろう、なにせ稼ぎの大きい商売人だからね。おれがここに居るんだ、今晩はきっと顔をだす」としたり顔でいう。釈然としない若い衆も、なんやかんやと押し切られて、結局、昨日と同じなりゆきに。
そして三日目の朝、催促もこれで三度目、ついに佐平次が居直る。
一文無しが、ここにいる。
取り立ては? できるわけもない。ビタ一文ないという。
あの三人は? どこの誰だかわからない、行きずりの、合口のよかった、ただのニワカ友だちだと吹かしている。
この男、ハナから居直るつもりなものだから、悪びれず堂々たるものだ。
にっちもさっちもいかなくなって固まる妓楼の者たちを尻目に、むしろ佐平次のほうが気遣いながら、「どうもすいませんね。行灯部屋はどこですか。おじゃましますよ」とばかりに、みずから志願して蒲団部屋(ふとんべや)へ。われから望んで軟禁の身にあいなることに。
ともすれ、妓楼は今晩も大繁盛である。
人手が足りず、猫の手も借りたいほどに忙しい。タナの者たちが右往左往とバタバタするなかで、居続けごときをかまっている暇などない。
ここにもう一人、おいてきぼりの客がいた。
「まったく、いつまで待たせる気だい。敵娼(あいかた)が遅れるのはしょうがねぇ。それにしたって、どうなんだい、刺身につける醬油(したじ)まで来ないとはよ。猫じゃないんだよ、醬油がなくて生魚が食えるかってんだ」
「へい、お待ち遠さま」
「おう? 見ねぇ顔だな、若いシかい。まったく、客をおっぽり出して、こちとらいつまでも穏やかじゃいられねぇぞ」
「まったくもって、どうもあいすいません。ささ、下地をもって参りました。ささ、どうぞどうぞ」
蟄居の身の上の佐平次が、醬油の注がれた小皿を片手に、どういうわけだか客の相手をしはじめる。
「それにしても、だんな。敵娼の紅梅さん、聞いたはなしじゃ、ああたにホの字のようですぜ」
「へへ、そうなのかい」
「ええ、そりゃあ、もう。こういう商売ですから、おもてには出しませんがね」
「おい、そこのところ、ちと詳しく聞かせてくれねぇ。おまえさんも、一杯どうだい」
「へへ、こりゃぁ、どうも、ご相伴にあずからせていただきます。どうせいただくんでしたら、こちらの湯呑みで」
「ばかやろう」
この男、ずうずうしいけど妙に愛嬌があって如才ない。
客の苛立ちもおさまるどころか、仕舞いにはすっかり気分もよくなって、祝儀まで切らせるほどに。
客を調子よく乗せているところへ、しばらくしてお座敷にあがってきた紅梅も驚くことに。
「あらま、この人、居残りさんよ」
「えっ! だってこの人、醬油を運んできてくれたぜ」
「へへ、どうもすいません。じつはですな、アレは他の座敷の下げ膳から蕎麦の残りツユをちょいと拝借したものでして……」
「どうりで甘ったるい醬油だと思ったよ!」
それでも、すこぶるウケよくこの場をさばいて、おもしろおかしく陽気に退場。客もねえさんも満更でもないという心もちにさせるのだから、座持ちが巧みなこと、このうえない。
そんな調子で、この佐平次、その後も神出鬼没の出入りの座敷で、ことごとく評判を上げてゆく。
昼は昼で、女郎たちの手紙の代筆をしたり、笑える世間話を披露したり、棚子の道具の修繕を器用に手がけてやったりと点数稼ぎに余念がない。タナの者たちのあいだでも、たちどころに人気はうなぎ登りだ。
夜はもちろん、幇間(たいこもち)も真っ青の、八面六臂の活躍ぶりで、客からお座敷がかりのひっぱり凧に。
「座敷がなんだかさびしいな。おい、居残りを呼んでくれ」
「はい、ちょいと〜、イノど〜ん」
「ヘ〜イ、ヨイショッと!」
面白くないのは妓楼の若い衆たちだ。入ってくるはずの祝儀が、気づけば、ほとんど佐平次の懐に。死活問題である。これでは苦情が出てもしかたがない。
そこで、ようやく妓楼の主人が重い腰を上げる。
「おまえさんが居残りさんかい。あたしもね、これまでは野暮だと思って口出ししなかったが、ここはどうです、いったん家へお帰りなさい。もちろん、これまでのお足(勘定)はきちんといただきますよ。でも、すぐにでも、まとめて出せというわけではない。何年かかってもいいから、少しずつあたしのところへ持って来てくれればいいんだ。家で待つ人もいるんだろう。どうです、ここはお引けということで」
「ご温情いただき、ありがとうごぜぇやす。ですが、ここの敷居をまたいで出れば、御用捕ったと十手風(じってかぜ)」
「なんだい! おまえさん、傷持ちかい」
「人殺しこそ致しやせんが、夜盗掻浚家尻切(やとうかっさらいやじきり)」
「そんな悪党には見えないがね」
「おっしゃるとおり、親父は神田白壁町でかなりの暮らしも致しておりましたが、生まれついたる悪性で、ガキのうちから手癖が悪く、抜け参りからグレだしまして、旅を稼ぎに西国回って、守備も吉野山……」
「どこかで聞いたようなセリフだな」
佐平次の身の上ばなしを聞くにつれ、焦り出す旦那。
なんとかここに置いてくれと粘る佐平次を前にして、そんな話を聞いたとあっちゃ、なおさら置いておくわけにはいかない。
罪人をかくまったとなれば稼業に支障をきたす。店の前で捕物があったとなれば看板にも傷がつく。
無関係だと言い張るためには、佐平次をとにかく店から遠ざけたい。
「出て行きたいのはやまやまなんですが、こんな身なりとあっちゃぁ……」
「着物だね。どれ、あたしの着古しがどこかにあっただろう」
「先日、おろしたて着物が越後屋から届いておりましたが……」
「あたしは知らないよ! どうしておまえさんのほうがそれを知っているんだい! まあ、しょうがない。それを着て行きなさい」
「こちらにご迷惑をおかけするのは、たいへん心苦しいのですが……」
「路銀だね。こちらで用意しよう。これを持って、はやく、どこか遠くへ行っておくれ!」
新調の着物に履き物、十両の路銀を渡して、とにもかくにも佐平次を追い立てた。
品川から放り出された佐平次のほうはといえば、鼻唄まじりで悠々自適に街道を流している。
人目を憚るそぶりもない。
お目付役で尾行してきた若い衆が、どういうことかと佐平次に声をかけて詰め寄る。
「おう、なんだい、お遣いかい?」
「おまえさん、傷持ちだろ。そんなにおおっぴらにしていて大丈夫なのかい?」
「ああ、なんだい、そのことかい。おめぇさんも、この商売にかかわっているなら、この顔をよぉく覚えておきな。おれはな、居残りを稼業にしている佐平次ってもんだ。おめぇんところの旦那には稼がせてもらったぜ。礼をいっておいておくんな。あばよ」
とって返して、旦那に事の次第を報告する若い衆。
江戸界隈の遊郭で居残りを商売にして渡り歩いていた男だったと知れ、旦那と一緒にサゲの一言。
「ちくしょう、どこまであたしをおこわにかける」
「だんなの頭がゴマ塩ですから」
◾️ 落語のことば補説
▼ 佐平次(さへいじ)
人形浄瑠璃や歌舞伎の世界の幕内隠語として、口から先に生まれてきたような軽薄にぺらぺらしゃべる人物を指して、「佐平次口」「いらざる佐平次」「佐平次ばる」「佐平次がる」「佐平次に出る」「佐平次をあがく」などといったそうだ。実在した人物がいたのか真偽は不明だが、楽屋のほうで普通に使われるようになって、それが転じて落語の登場人物として擬人化され命名されたという。
▼ 品川(しながわ)
徳川の時代、幕府に公認されていた妓楼(ぎろう)は唯一、吉原(よしわら)だけで、江戸でおおやけに遊郭(ゆうかく)・遊女(ゆうじょ)・花魁(おいらん)と名乗れたのは吉原に限られていたそうである。しかし、公認されていないとはいえ、女郎屋(じょろうや)は各所で栄えており、吉原に次ぐ繁華街が品川、新宿、板橋、千住で、四宿(ししゅく)といわれた。
四宿にある遊里は、おもてむきは旅籠屋(はたごや)で、遊女は飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれたそうだ。品川には、歩行新宿(かちしんしゅく)・北品川・南品川におよそ90軒近くあったという。
▼ 女郎屋(じょろうや)/妓楼(ぎろう)/遊郭(ゆうかく)・遊女(ゆうじょ)/女郎(じょろう)/花魁(おいらん)/敵娼(あいかた)
江戸時代、女郎屋・妓楼・遊廓は娯楽の中心にあり、文化の発信地とでもいえる場所であった。
それだけに、私娼街(公許の場所は吉原のみ)も含めれば、廓・郭(くるわ)、曲輪(くるわ)、傾城町(けいせいまち)、花街(はなまち、かがい)、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)、岡場所(おかばしょ)、女郎屋(じょろうや)、飯盛旅籠(めしもりはたご)など、呼称が林立している。
落語の噺によく出てくるのは江戸中期以降の遊郭の様子で、大衆化が進んで庶民が主な客層となっていった時期のことだ。
「遊女(ゆうじょ、あそびめ)」は本来「客を遊ばせる女」という意味の一般呼称で、もともとは芸能に従事する女性たちをさしたものだったが、時代が下るとともに蔑称の意味合いが強まり、やがて売春専業者を意味することばに転じる。
「女郎」という呼称については誤解している人も多いようだが、もともとは貴族女性、官女をさす「上臈(じょうろう)」から転化したことばで、蔑称ではない。
「花魁」は、江戸中期以降の吉原での上級女郎の敬称である。「おいらん」以前は「太夫(たゆう)」と呼ばれ、こちらは吉原遊女の等級をあらわすことばである。最上級を太夫、以下、格子(こうし)・散茶(さんちゃ)・梅茶(うめちゃ、または局女郎(つぼねじょろう))の順で続き、ほかに切見世女郎(きりみせじょろう)などがあったが、中期以後は太夫と格子がなくなった。
「敵娼」は遊客から見て馴染みになった娼妓(しょうぎ)をさす遊里用語となる。「敵」の文字は「自分とつり合う者」程度の意味である。意味深ではあるが。
遊郭では、客が登楼する初回を「初会」、二回目を「裏」といい、初会のときに双方気に入って二回目の約束をすることを「裏を付ける」という。三回目が「馴染み(なじみ)」で、馴染み金という祝儀をはずまなくてはならない。この「馴染みを付ける」ことで、娼妓は初めて客と同衾(どうきん)することになる。
ちなみに江戸中期までの遊郭での遊びはけっして「売り物・買い物」ではなかった。吉原の太夫は諸大名の奥方、公家の子女も及ばぬほどの学識をもち、芸道については当世一流の教育を受けていたそうである。琴、鼓、三味線に秀で、茶道、香合、立花に通じ、書道、和歌、俳諧、絵画をよくした一級の貴婦人であった。そこには明確な"誇り"があり、廓(くるわ)の外の女性一般をさして"地女(じおんな)"と呼び、「地女の及ぶところに非ず」とするだけの教養を身につけていたそうである。それゆえ太夫(花魁)には、自分につり合わない"客を振る"権利が厳然と存在したそうで、金にものをいわせて詰め寄ろうとする驕った客をつっぱねることを「張り」といったそうである(参考:隆慶一郎『吉原御免状』新潮文庫、1989年)。
ということで、遊郭での三度の逢瀬を形式としてしつらえたのは、店の側からすれば"客の見定め"も兼ねていたはずで、女郎の側にも断る機会をはっきりと認めていたものだといえるだろう。現代の性的労働とは当然のことながら事情が異なっていたということである。
▼ 若い衆(わかいし)
遊里の男衆をさす。強面(こわもて)だったかどうかはわからない。年齢によらない呼称である。
妓楼の主人の代理を務める「番頭」、店先で客引きする「見世番」、二階にある各座敷の小間使いである「二階廻し」、寝床をしつらえる「床廻し」、徹夜で警備して行灯の油つぎをする「不寝番(ねずばん)」、勘定の取り立てや帳場の使いをする「掛け廻り」、湯殿の世話をする「風呂番」、酒肴を配膳する「台廻し」などの仕事があったそうだ。
▼ 行灯部屋(あんどんべや)・蒲団部屋(ふとんべや)・軟禁(なんきん)
あんどんとはことばのまま持ち運べる照明(灯台)のことで、行灯部屋とは日中でも陽が差さない薄暗い部屋のことである。妓楼特有の部屋だったそうで、つまりは照明を持ち運ばないと中が暗い物置部屋のようなところ。座敷牢ならぬ、無銭飲食をしでかした一文無しを閉じ込めておくのにちょうどいい部屋だったというわけだ。この噺の場合、それが蒲団部屋にすり替わっているわけだが、これは要するに、品川は東海道の最初に数えられる宿場町でもあったわけで、ここが客の布団が積んである旅籠だとの描写というわけである(別の意味もあるが)。
客が勘定を滞らせた場合、妓楼の若い衆や、馬屋、始末屋とよばれた専門の従事者が同道してとり立てを行ったそうで、その様子を描いた「付き馬」という落語ネタもある。佐平次の場合はみずから望んで軟禁の身となったわけだが、これは店側がとり立てへ行く前の一時預かりのような状態ということになる。
なお、支払い不能と判断された場合は、客の衣服、所持品いっさいがっさいを没収して弁済に当て、素っ裸にして追放したそうだ。
▼ たいこもち・幇間(ほうかん)・野だいこ
宴席、お座敷を陽気に囃し立てる役割を担っていた男芸者をさす。おそらく元来"芸人"とは、この人たちのことを指したことばである。酒と酒の「間」を「幇助(ほうじょ/あいだを取り持つ)」する者の意で、「幇間」とも呼んだ。たいこもちの歴史は相当古いらしく、近世に入って職業化され、廓・色里・花街での専業ということになったらしい。芸能事務所のようなものもあり、検番に登録し、依頼のあった「お座敷」に派遣されたそうである。検番に登録していない、いわゆる"もぐり"のことを「野だいこ」といい、佐平次のやっていたことはこれに相当する。
正規のたいこもちに対して野だいこは最低限の生活保障がない代わりに祝儀などの一部上納も免れていたため、才覚のみ、文字どおり裸一貫で、扇子をパチパチ、ニコニコ揉み手で、神出鬼没に座敷を渡り歩いて稼いでいたわけだ。まこと逞しい生きざまである。
▼ 傷持ち/脛に傷(すねにきず)
ことわざ「脛に傷持てば笹原走る」から。後ろ暗いことがあったり、心にやましいことがあると、おだやかに世渡りできないことのたとえ。罪人、悪人のことである。
「御用捕ったと十手風」は時代劇等でご存知だと思うが、悪人が与力や同心、岡っ引きに捕まること。捕物でのかけ声が「御用だ!」ということで、「与力」「同心」は公職。「岡っ引き」はじつは民間人だそうだ。「十手」は当時の警棒のようなもので、真棒の脇に刀身を受けるL字の受けが付いている。
夜盗(やとう)・掻浚(かっさらい)・家尻切(やじきり)とは、「夜間の盗み・人の横合いからの盗み(スリ、置き引き)・家や蔵の裏手の壁を壊して侵入する盗み」のことをいう。
あらすじで旦那が口にした「どこかで聞いたようなセリフ」とは、歌舞伎で有名な「白波五人男」の一人・忠信利平の名ゼリフのことである(「続いて次に控えしは/月の武蔵の江戸育ち/餓鬼の折りから手癖が悪く/抜け参りから愚連出して/旅を小股に西国を/廻って首尾も吉野山/まぶな仕事も大峰に/足をとめたる奈良の京/碁打といって寺々や豪家へ押込み盗んだる/金が御嶽の罪料は/蹴抜の塔の二重三重/重なる悪事に高飛びし/あとを隠せし判官の/お名前騙りの忠信利平」)。落語の噺のほうにこのセリフを取り入れたのは明治から大正にかけて活躍した初代・柳家小せんだそうで、無類の遊郭好きだったそうである。
▼ おこわにかける
サゲの「おこわにかける」は、美人局(つつもたせ)の別称だそうで、「ペテンにかける」という意味である。
最初にこのサゲを聴いたとき、じつは意味がよくわからなかったのだが、「おこわ」は「おお怖わ」の略だそうで、つつもたせにあって金を取られて怖い思いをすることを「オコワにかかる」といったそうだ。
美人局とは元来、妻が夫と共謀して他の男との情交ないし情交未遂をし、それにいいがかりをつけて相手の男から金銭をゆすりとる犯行であるが、実態として遊里がこれと似たようなことを商売にしていること、さらには口車に乗せて男どもを骨抜きにする里を佐平次が逆手に手玉をとって「いっぱい喰わせた」ということを、サゲの一言に又掛けしているというわけである。
ちなみに「おこわ」は、もち米を炊いたり蒸したりする米飯の総称であるのはご承知のとおりだ。江戸時代の庶民は粥が主食だったというから、もち米を蒸す料理を硬く感じたのだろう。「強飯(こわめし、こわいい)」とも呼んでいたそうだである。ご存知かと思うが、もち米と一緒にあずきを蒸した「赤飯」もおこわのひとつである。赤飯には胡麻塩をふる。こちらも、怒って顔を真っ赤にした旦那を「おこわ」に見立てて、頭に「ごま塩」がふってあったのを佐平次が「いっぱい喰った」というわけである。
◾️ 鑑賞どころ私見
落語の世界のさまざまな登場人物のなかでも出色のキャラ立ちで、ある種のヒーローものとでも呼べる噺が、この居残り佐平次である。
兎にも角にも口八丁、軽快で調子良く、底抜けに明るく他人を盛り立てる。それでいて、したたかで抜け目なく、裏できっちりと自分の目的を完遂する。居残り稼業など世の中のなんの役にも立たない、誰からも認められることのない、そんななりわいであるにもかかわらず、佐平次の活躍をみていると、どこかでひそかに拍手喝采を送りたくなり、世知辛い世間のなかでも一人くらいこういうヤツがいてもいいではないかと思わせる、そんな痛快な人物像を見事に描いた傑作といえるだろう。
噺の展開については、こじつけ気味のサゲに物議はあるものの、本編のほうは緩急起伏に富む内容で、噺家のあいだでは、経験と廓遊びのなんたるかを知悉した、よほどの力量がなくてはこなしきれない大作といわれているそうである。
この噺、主人公の存在感で聴かせる噺なだけに、佐平次の人物像に噺家自身の捉え方がものの見事に投影される噺といえる。
噺家の語り口によってまったく別人のような佐平次が立ち現れるので、聴き比べの醍醐味をわかりやすいかたちで味わえる作品である。
たとえば、あらすじの冒頭で触れたように、佐平次はそもそも胸の病を患っている。その後の展開でこのことを忘れがちになるが、噺家にとってはこれが争点となるようだ。
佐平次の底抜けの明るさのなかにある翳りをどう聴かせるか。
この病を深刻に捉えるのならば、佐平次が仲間を通して幾許かの金銭を老いた母親の元に届けさせようとする思惑に含みが出てくるし、座敷での虚勢のなかに哀愁が感じられて、その人物造形もさらに立体的なものとなるだろう。
あるいは金払いのいいお大尽こそ粋と崇める妓楼側からしてみれば、佐平次の居残りはたんなる愉快犯というだけで、無邪気かもしれないが野暮のきわみと映る。そうであるならば、佐平次の言動にも多少の棘が認められるところとなり、印象もまた変わってくるだろう。
噺家とともに、それを鑑賞する側もまた、佐平次のありさまになにを見るのか、なにを求めるのか、色が分かれるということである。
個人的には、三代目・古今亭志ん朝の爽やかな語り口で描かれる佐平次をいちばん好ましく思っているのだが、志ん朝を終生のライバルとした七代目・立川談志が描く"孤独"な佐平次にも捨てがたい魅力がある。
と、いったように、噺の解釈を加味しながら噺家の語りようを楽しむのも、落語の面白さのひとつといえるだろう。
◾️ YouTube 視聴
[2024年4月現在、視聴可能な動画となります]
▼ 映像あり
・古今亭志ん朝[三代目]:https://www.youtube.com/watch?v=yM8A_03Q3bs
・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=cXjzXaqPm0Y
・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=VvEZEWLuzEM
・三遊亭圓生[六代目]:https://www.youtube.com/watch?v=H7eic8RT_08
・桂文朝[二代目]:https://www.youtube.com/watch?v=TCjCcjhcB_Y
▼ 音声のみ
・古今亭志ん朝[三代目]:https://www.youtube.com/watch?v=1jYkNJRS_Qo
・古今亭志ん朝[三代目]:https://www.youtube.com/watch?v=nx4DJJGadtI
・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=dRyRspnTnGg
・立川談志[七代目]:https://www.youtube.com/watch?v=nO5iSzZyxbg
・三遊亭圓生[六代目]:https://www.youtube.com/watch?v=fJsg_GDkuwc
・柳家小三治[十代目]:https://www.youtube.com/watch?v=XiJr0pShDD8
◾️ 参照文献
・矢野誠一『落語手帖』(講談社+α文庫、1994年)
・京須偕充『落語名作200席(上・下)』(角川文庫、2014年)
・榎本滋民 著、京須偕充 編『落語ことば・事柄辞典』(角川文庫、2017年)
・立川志の輔 選/監修、PHP研究所 編『滑稽・人情・艶笑・怪談… 古典落語100席』(PHP文庫、1997年)
・隆慶一郎『吉原御免状』(新潮文庫、1989年)