粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

日常茶飯事

食いものの衝撃を感じなくなって久しい。

過去を振り返るに、えもいわれぬ美味さにその飯し屋へと通い詰める、ということをやった経験が幾度かある。

が、そういったことも絶えて久しいように感じられて、これはなかなかどうして、人生を損しているのではないかと思えてきた。

 

旨かった飯の記憶というのは、人生の財産になりうるような気がする。

そのとき、たしかに幸福だからだ。

もっとも、死んでいくときに見る走馬灯のなかで、飯にかぶりついているシーンばかりでは、俺の人生、食ってばっかりって、どういうこと? と思いそうではあるが、それでも食にまつわる記憶というのは、ともに食事をした人たちの顔を思い浮かべることなどと相まって、おおむね幸福感を多分に含んだものになるのではないだろうか。

 

と前振りをしておいて、最近、別の意味で衝撃を受ける食いものを口にした。

 

クリームあんみつ、である。

 

正直、自分のなかの、人生の食事目録に登録されていない品目である。

以前にいつ食べたのか、記憶を辿ろうとしても五里霧中のしろもので、そもそも食べようという発想すら湧かない一品だった。

ここにきて、なぜにこれを食うことになったのか、それすらも謎といえる。

たんにカミさんが買い置きしていたもので、それが冷蔵庫のなかにあったから、としか答えようがない。

小腹が空いて、ほかに適当なものもなかったので、とりあえず食うか、という程度の無為の所業で口まで運んだ。

 

が。

 

食った瞬間、この食いものにハリ倒されるような衝撃を受けた。

 

これは暴力である。

 

バニラアイスと、あんこと、くろみつが、三つどもえで、ナタをかついで襲いかかってくるような甘さだった。

 

これは調和というのか?

 

まったく気風の相入れない戦国武将が領土争いをしているような甘さである。

 

そんななか、まめとかんてんが、まったくもって仕事をしていない。

いや、仕事をさせてもらえないのだろう。

 

この暴力的な甘さを中和すべく、特攻の精神で任務に臨んだのかもしれないが、猛将たちがあまりにも暴れまわるので、完全にやる気を失い、無気力状態に陥ったとしか思えないありさまである。

 

もっとも、これに、しらたまが加わったとしても、多勢に無勢だろう。

猛将たちが、あまりにも甘すぎる。

それ思うと、まめとかんてんが、あわれでしかたがなかった。

まめとかんてんに、まさか、これほどまでに憐憫の情をかける日が来るなど、ついぞ思わなかった次第である。

 

ともすれ。

 

とにかく、甘い。

まあ、甘い。

 

むかしの日本人がどれほど甘さに飢えていたのか、思い知らされる気がした。

スィーツなどという、なまやさしいものではない。

それこそ、甘さへの飢餓感というか、執念、怨念すら感じる。

節操なしに、甘いものならなんでもかんでもブチ込んだれ、と、ただただやけっぱちになったとしか思えない盛りようではないか。

こんなエキセントリックなものを和菓子と呼んでいいのだろうかと心配にすらなる。

お茶とともに、ほっと一息、つかない、つけない。

お茶をガブ飲みするばかりである。

 

結局、この衝撃にあてられて、コンビニに走った。

なんでもいいから、とにかく、しょっぱいものがほしい。

塩ケへの渇望が、ふだんあまり目のいかないビーフジャーキーを手にとらせる。

家への復路でこらえきれずに封を切り、この黒船をしゃぶりつくした。

 

衝撃的なウマさだった。

衝撃、2連発である。

もはや、どっちの衝撃がほんとうに衝撃的だったのかわからなくなっている。

 

で。

 

これを書きながら、ふと気づいた。

前段でわかったようなことを言いながら、食いものの衝撃など、じつは日常茶飯事で起こっているのではないか。

舌の上に留めているだけで、頭で意識していないだけなのではないのか。

暴力的な甘さに殴られて、ようやく気づかされたのかもしれない。

旨みはそこに確かにあり、感じようと思えば、いつでもその衝撃に気づくことができるのではないか。

 

そうだとすると、食事のたびに人は幸福であり、だから人生は幸福なものなのかもしれない。