粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

【読書】健康優良不良少年たちが闊歩するドープな近未来的世界 ──『AKIRA』(大友克洋)

コミックス刊行ならび映画公開から40年ほどを経てもなおリアルタイム感を損なわない強度を誇る、いまなお日本のマンガ、アニメーション作品の頂点に位置しているといっても過言ではないマスターピースである。圧倒的な画力、クールな音像性、そして最高にドープな世界観とストーリー。面白いマンガは数あれど、個人的に、ここまで"カッコイイ漫画"を他に知らない。

 

◾️ 出版社案内文

第3次世界大戦から38年、世界は新たな繁栄をむかえつつあった──。ネオ東京を舞台に繰り広げられる本格SFアクションコミックの金字塔!

 

◾️ 読みどころ私見

ふだんマンガを読むことはないのだが、何年かのバイオリズム?で妙にハマって読み漁る周期、時期というのがあって、最近、その熱がぶり返している。

読みふける周期のきっかけとなるのはたいがい、行きつけの床屋や定食屋、中華料理屋などで何気なくふと手に取ったものに目を通すのが事の始まりで、以前に読んだことのある作品でも、「あれ、この続きどうなるんだったっけ」といった具合に沼にハマり、その後、芋づる的にいろいろなタイトルをハシゴすることとなる。

ある種の熱病のようなものであるが、そして今日、そんなこんなで、とある過去の作品にグッと引き寄せられて、かつ懐かしさに絆されて、近所の書店で大人買いをしてしまった。

 大友克洋『AKIRA』(KCデラックス)全6巻である。

 

30年も前のことになろうか、中高生の頃に夢中になった作品である。

ヤンマガで連載していたが、当時、毎週ではなく不定期に掲載されていたので、次の話がいつ出るのかと待ちわびていたことを思い出す。

ストーリーも秀逸だと思っていたが、なんといっても画力が圧巻だった。

ひとコマひとコマをこんなにも細かく描くのかと感心したものである。

当時はそれこそ、連載が遅れるのも納得づくで、打ち切りにならず作品が無事に完成してほしいものだと応援していたくらいだ。

今回の再購入でも、相変わらずの圧倒的な迫力ある構図にあらためて舌を巻いた次第である。

 

この作品、映画のほうもすばらしい出来栄えである。

こちらももちろん、リアルタイムで映画館で観た。

公開中に近所の映画館になんども足を運んだものである。そんな作品、最初で最後だったし、当時の自分の琴線にいたく触れていたのだろう。

今回もマンガ読了後、映画のほうも観なおしてみたが、やはりよかった。

バイクはもとより、鉄雄のジャンクな義肢、金田が着ていたボーダーや薄ピンクのシャツ、ケイのグラサンやファッション、ジョーカーのペイント、春木屋の看板などなど、瑣末なところにもセンスを感じさせる。

マンガと映画とで、それぞれ異なる持ち味があって、両方ともいい。

あらためて読了、鑑賞してみて、連載当時はたしか、青年誌はヤンキー漫画全盛の頃だったと思うのだが、そんななか、まず舞台が近未来で、身なりはふつうな健康優良不良少年たちが"ドープ"な状況に巻き込まれながらもワルあがいて、闊歩、活躍する世界観をいたく気に入っていたのだろうなと思い返された。

 

ところでこの作品、"ドープ"という形容がぴたりとハマる。

「ドープ」ということばは「ドーピング」を語源とした英語スラングで、『AKIRA』の作中にもそれに類する描写が散見されるという意味でもぴったりだが、もともとヒップホップ系の音楽をはじめとする様々なジャンルの"イケてる"楽曲を形容するワードとして使われたそうで、「ヤバい」「最高」「カッコイイ」などを意味する。

つまりは、問答無用でクールな"音楽的"作品であるといいたいわけで、作中のさまざまなシーンからは音楽が浮かびあがってくるような、画力とあいまって音像を想起させるような、そんな圧巻の表現が随所に光っている。

実際、映画のほうで使われている芸能山城組のサントラも海外で傑作の誉高い評価を受けていて、上質な映像作品としての完成度も高い。

要するに、あらゆる面で他のアニメーション作品の追随を許さない傑作ということである。

 

それだけに、この作品のインパクトはかなり大きかったのだと思う。

その後の日本のマンガ、アニメーションの分水嶺とでもいえる画期的作品といってもいい。

ちなみに、何年か前に世界的にヒットしたマンガ『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)を読んだ際、このなかに登場するラスボス鬼舞辻無惨の最終形態が、こういってはなんだが"まんま"鉄雄の力の暴走後の肥大化した姿を摸しているとしか思えなく、パクリを疑ったほどである。

『AKIRA』既読者ならば誰しもが気づいたであろうが、まあ、パクリは言い過ぎだとしても、これはオマージュなのだろう。

『AKIRA』の影響力を推してはかるべき証左であって、この作品がいまなお尽きることのないイメージの源泉となって、後続のマンガ・アニメ作品にまで及んでいることは確かなのである。

さすが、金字塔といわれる作品だけのことはあると、あらためて納得した次第である。

 

◾️ 書誌情報

AKIRA(1)|出版社:講談社 (1984/9/14)|発売日:1984/9/14|言語:日本語|コミック:358ページ|ISBN-10:4061037110|ISBN-13:978-4061037113

AKIRA(2)|出版社:講談社 (1985/8/27)|発売日:1985/8/27|言語:日本語|コミック:306ページ|ISBN-10:4061037129|ISBN-13:978-4061037120

AKIRA(3)|出版社:講談社 (1986/8/21)|発売日:1986/8/21|言語:日本語|コミック:282ページ|ISBN-10:4061037137|ISBN-13:978-4061037137

AKIRA(4)|出版社:講談社 (1987/7/1)|発売日:1987/7/1|言語:日本語|コミック:394ページ|ISBN-10:4061037145|ISBN-13:978-4061037144

AKIRA(5)|出版社:講談社 (1990/11/26)|発売日:1990/11/26|言語:日本語|コミック:414ページ|ISBN-10:4063131661|ISBN-13:978-4063131666

AKIRA(6)|出版社:講談社 (1993/3/15)|発売日:1993/3/15|言語:日本語|コミック:436ページ|ISBN-10:406319339X|ISBN-13:978-4063193398

 

【読書】あなたの「運命の楽器」はどれか? ──『オーケストラ楽器別人間学』(茂木大輔)

音楽に関心のある人なら、どなたでもおそらく気になるであろう話題。すでに楽器をやっている人も、やっていない人も、数ある楽器のなかで自分と相性のいい楽器はどれなのか? ──興味をそそるお題である。この自分にとっての「運命の楽器」とはどれか、について少しでもピンときたならば、おすすめしたい本がある。

NHK交響楽団のオーボエ奏者、茂木大輔さんが書いた『〈決定版〉オーケストラ楽器別人間学』(新潮文庫、1996年)という本だ。

クラシックのオーケストラに登場する楽器たちとそれを操る奏者の人となりについて、おもしろおかしく掘り下げた、まさに「人間学」を展開していて、けっして悪い意味ではなく極上の"ひまつぶし"時間を提供してくれる本である。

楽器をやる人はもちろん、やらない人も、この本を読めば、楽器が弾きたくなってウズウズするかもしれない。

 

◾️ 出版社案内文

あなたの運命は選んだ楽器が決めていた! まさかと思ったホルン奏者のあなたは山奥育ちですね。ファゴットを始めたあなたは、最近お人好しになっていませんか。楽器と性格の関係を、N響首席オーボエ奏者が爆笑的にプロファイリングする禁断の音楽書。演奏者必携の名著を大幅リニューアル。指揮者、ソリスト、声楽家などを考察した「オーケストラ周辺の人々学」、「アマチュア・オーケストラ専門用語集」などを増補した決定版。〈巻末マンガ〉二ノ宮知子

 

◾️ 読みどころ

この本、楽器をやる人たちのあいだでわりと話題になる、「運命の楽器ばなし」について、おもしろおかしく、かつ大まじめに掘り下げた傑作本である。

初出が1994年なので(リニューアル出版された決定版としても、すでに5年を経過したが)、若い人たちには馴染みのない芸能人なども参照例として掲載されてはいるものの、そこを読み飛ばしても、「楽器をやる人あるある」が軽快に解説されている好著でもある。

こういったたぐいの本の独断と偏見と"おふざけ"は、それはそれとして温かく見逃してあげるのが、こころよい読者というものだろう。

それを差し引いたとしても、この本が興味のそそるテーマを扱っていることにはかわりない。

──いろんな楽器があるなかで、その人がその楽器を選んだのはなぜ?

この問いに興味の湧いた方は、ぜひに手にとって一読されることをおすすめする。

楽器経験者や音楽好きにとってはなおさら肩肘張らずに読めて、クスクス笑えること請け合いである。

ちなみに小生自身は、クラシックではないのだが、大人になってからジャズを演奏してみたくなって、コントラバスを習い始めた。

そのうえで、この本に書かれている「その楽器にとって典型的な奏者の代表的履歴書、身上書」を読んだときに、おもわず笑って吹き出してしまった次第である。

気軽に読めて、かつ、こういう楽しい読書体験はそうそうない、貴重なものではないかと思う。

けっして悪い意味ではなく極上の"ひまつぶし"時間を提供してくれる本である。おすすめである。

 

◾️ 書誌情報

出版社:中央公論新社 (2018/7/20)|発売日:2018/7/20|言語:日本語|文庫:310ページ|ISBN-10:4122066182|ISBN-13:978-4122066182

▼ 目次・所収

オーケストラ楽器配置図

序論 楽器と人間の不思議な関連性

第1章 楽器選択運命論 どんなヒトがどんな楽器を選ぶのか

【管・打楽器編】あるフルート奏者──北国出身、どことなくクリスタル/あるオーボエ奏者──演劇少年の突然の変身/あるクラリネット奏者──関西出身、パパはパイロット?/あるファゴット奏者──森にかこまれて育った純朴少年/あるサクソフォン奏者──ナウいポップス系から、いきなりクラシックおたくへ/あるホルン奏者──山奥育ち、ひたすら師の影を慕う/あるトランペット奏者──沖縄出身、まじめ少年の大スターへの道/あるトロンボーン奏者──運動部で鍛えた肺活量、気がつけばプロに/あるテューバ奏者──ブラバン少年の前に敷かれた、なだらかなレール/ある打楽器奏者──他人にはうかがい知れない、もとガリ勉少年の心のうち

【弦楽器編】あるヴァイオリン奏者──男子は都会派のエリートコースまっしぐら、女子はまじめ少女の順調路線/あるヴィオラ奏者──素直な性格となりゆきで、道は自然に開かれる/あるチェロ奏者──運命の決め手は父から渡された一枚のレコード/あるコントラバス奏者──「本の虫」からウクレレに開眼、コントラバスも独学/あるハープ奏者──ハイソの育ち、イギリス人の先生に師事、もちろん留学も

第2章 楽器別人格形成論 いかなる楽器がいかなる性格をつくるのか

【管・打楽器編】フルート──冷たさも軽みもそなえた貴族的エリート/オーボエ──ストレスに苦しみ、くよくよと細かい?/クラリネット──複雑さをひめた万能選手/ファゴット──愛すべき正義派/サクソフォン──一点こだわり型ナルシスト/ホルン──忍耐強い寡黙の人/トランペット──神格化された、やる気満々のエース/トロンボーン──温暖な酒豪、いつも上機嫌/テューバ──底辺を支える内向派/ティンパニ、打楽器──いたずら好きでクールな点的思考者

【弦楽器編】ヴァイオリン──陰影に富んだユニバーサルの人/ヴィオラ──しぶく、しぶとく、「待ち」に強い/チェロ──包容力とバランス感覚にすぐれた、ゆらぎのない人間性/コントラバス──泰然自若、縁の下の巨大楽器/ハープ──夢見がちな深窓の令嬢

第3章 オーケストラ周辺の人々学 オケの前後左右にはいかなる人々がいるのか

指揮者──勝ち組・安心・カタルシス/ソリスト(独唱、独奏者)──オリンピック級のアスリート/声楽家(ソロ歌手、オペラ歌手)──お姫様から小間使いまで/合唱団──笑い声が絶えない明るい集団/作曲家──本当の天才のみ/スタッフ(ステマネ、ライブラリアン)──裏方の主役たち/オーケストラ周辺の二刀流──マルチ、スイッチ、掛け持ち天才

第4章 有名人による架空オーケストラ この方々におねがいしてオーケストラをつくったら……

第5章 オーケストラ人間観察編 楽器とヒトとの不思議な関係

オケマンは語る「楽器とわたし」/楽器別適性判別クイズ/楽器別デートマニュアル/オケの宴会・楽器別相性論

[付録]アマチュア・オーケストラ専門用語集

中公文庫版文庫版あとがき

マンガ「のだめ的オーケストラ楽器別人間学」二ノ宮知子

 

【読書】漫然と考えていることを何気なくあぶり出してくれることばたち ──『知の百家言』(中村雄二郎)

モワッと感じているツカミどころのない考えが、あらわれては消え、流れ去ってはぶり返す、といったことが誰しもあるかもしれない。

こういったとらえどころのない想念の曇り空を晴らしてくれるのが"気づき"ということになるのだろうが、気づきは、だれかのちょっとしたひとことでふいにおとずれたり、自分がとらわれている思念の外側や、あるいは自分の足もとに、もしくはその事柄とはまったく関係のないシチュエーションなどに案外と転がっていたりするものである。

そして、そんな気づきのきっかけとなるおこないのひとつが「読書」ということになるのだろう。

あることばとの出会いが、そんな想念の霧を晴らすことがある。

世に格言・金言というものがあるが、これらはどこか遠い存在に感じられる偉人や賢人といった人たちの博物館に陳列されているようなことば、というわけではない。

それらの至言が仮に凡人の三歩先をいった思索に裏打ちされたものであったとしても、発想の素の部分はわれわれとなんらかわりない地平から考え始めているものである。

つまりは同じ場所に立って考えている。

それらことばは、自分独りの漫然とした考え(灰汁)をあぶり出してくれるロウソクのともしびとなってくれるものだ。

そんな有用な本のひとつとして、中村雄二郎『知の百家言』(講談社学術文庫、2012年)を紹介したい。

 

◾️ 出版社案内文

古今東西の「人類の英知」から厳選された哲学の言葉を、〈好奇心〉〈ドラマ〉〈リズム〉に溢れるエッセーで熟読玩味する。

有史以来、フィロソフィー(知を愛すること)は人類とともにあった。先人たちの「知を愛する」営為の結晶である言葉を選び出し、その含蓄を引き出して、紹介する。〈教養〉としての哲学ではなく、激動の時代を生き抜くために、生きることに渇きを感じる強烈な好奇心に、思い考えること=生きることと直結するような「哲学」を提示する珠玉のエッセー集。

「人々が時の流れのあまりに速やかなことに罪を着せて、時の逃れ去るのを嘆くのは、見当違いだ」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

「自然科学においても、探究の対象はもはや自然自体ではなく、人間に問いかけられた自然である」(ハイゼンベルク)

「幸福であるとは、なんのおそれもなしに自己を眺めうる、ということである」(ベンヤミン)

「われわれの憎むものが否定されたり、他の禍(わざわい)を被ったりするのを想像して生じるよろこびは、必ず心の悲しみを伴っている」(スピノザ)

※本書は、1999年に朝日新聞社から刊行された『人類知抄 百家言』を文庫化にあたり改題したものです

 

◾️ 読みどころ私見

本のジャンルのなかに「格言本・金言本」というものがある。

古今東西、偉人・賢人のことばの断片を編纂した、いわゆる雑学的な本といえる。

忙しい現代人、ビジネス・パーソンにしてみれば、元ネタになる本をじっくり腰を落ち着けて読む時間もないだろうから、さわりだけでも知っておきたいという人に好まれるジャンルということになるのだろう。

教養を身に付けたいという前向きな人びと御用達のジャンルということになるのだろうが、このての本を知識を仕入れるだけの情報源として取り扱うのは少々もったいないように思える。

個人的にはわりと有用な使い道もあると思っていて、たとえばこれらの本の背表紙が目に入ったときにでもふと手に取って、本全体にパラパラと目を通すことで、そこに並ぶさまざまなことばから現在の自分自身の志向や懸念、考えていることや感じていることの引っかかりをヒョイっと摘みあげるのにちょうどよいと思うのだ。

あたまのなかに散在する茫洋とした思念、そのときどきの自分のマインドを点描できるとでもいえようか。

なんとなく考えていたことの尻尾を掴む、ちょっとした糸口になる本ということである。

このての本は必要があって求めるというよりは、なにげなしに手にとるような本といえるかもしれない。

そういう本が自分の本棚に何冊かあってもいいだろう。

個人的に、その一冊が中村雄二郎『知の百家言』(講談社学術文庫、2012年)という本である。

これまでそのようにしてつき合ってきた本であり、そして十二分に機能してくれた本でもある。

使い方としては至極単純。先ほど述べたとおり、見出しのことばだけを拾っていくわけである。

たとえば今日はこんな感じでチョイスしてみた。

 

わしには道などないのだ。だから目はいらぬ。目が見えたときにはよくつまずいたものだ」(シェイクスピア

年をとった人が拠り所にしている独断的な考えは、その年になるともうおそらく、不可欠な支えになっている場合が多い」(ジンメル

もし造物主に非難すべきところがあるなら、彼があまりに無造作に生命を創り、あまりに無造作に生命を壊す点であろう」(魯迅

我々の体の中には、自分のことに関しては無感覚で、目も見えず耳も聞こえない虫が一匹住んでいるんだ」(プルタルコス

求める目的とは反対の結果を生む努力がある。一方、たとえうまくいかないことがあっても、いつも有益な努力もある」(ヴェーユ

人間のあらゆる過ちは、すべて焦りからきている。周到さをそうそうに放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる、性急な焦り」(カフカ

自分に固有の時間を、他人の時間に帰属させないことに慣れること。自分に固有の時間を、事物の時間に帰属させないことに慣れること」(バシュラール

一本の草を熟視し、一本の大樹に見入り給え。そして、それは虚空の空中に注ぐ、屹立する一条の河にほかならぬことを、心に思い見よ」(ヴァレリー

 

こうやって選んだことばたちが、現在の精神状態、思考の方向性をそのままのかたちであらわしているかどうかはさておき、少なくとも現在の私的な関心の所在はつかんでいるようには感じられる。

たとえば若い頃だったら、これらのことばよりも高尚というか、高潔というか、もう少し理想や理念のこもったことばを選んでいたような気がするから、やはり歳をとったということなのだろう。

といった具合に、ある種のマインド・セットができるというわけである。

まあ、私事は傍に捨ておくにしても、そのときどきで響いてくることばは当然、人それぞれ、時流や経験によっても変化するものであり、そのときどきの思考の傾向をうっすらとでも透かして、あぶり出して見ようとするのに有用な本ともいえる。

十年以上前の本ではあるが、人間が思考することの根っこの部分はそうそう変わるものでもあるまい。

だから、いつ読んでもときどきの貴重な示唆を含むことは言うまでもないだろう。

各ことばに附された著者の解説も簡素に要点をとらえおり、くどくなくていい。

もちろん、原書へと地続きで自然に誘引してくれるような玩味ある筆致に著者自身の冴えある思考の片鱗もうかがうこともできる。

この本はまた、敷居の高くみえる哲学書・思想書のなかでも良い意味で"中庸"な入門書であるようにも思える。

何事かを深く考えていく前段には、このての本にあるような"思考の助走"(=随想)がかならずあるものであり、この本はその要件を過不足なく点景してくれているように思う。

格言本・金言本のなかでは、群を抜いておすすめの一冊である。

 

◾️ 書誌情報

出版社:講談社 (2012/8/10)|発売日:2012/8/10|言語:日本語|文庫:352ページ|ISBN-10:4062921243|ISBN-13:978-4062921244

▼ 目次・所収

学術文庫版まえがき

クンデラ/ドストエフスキー/マルクス・アウレリウス/老子/テイヤール=ド=シャルダン/エピクロス/シオラン/モンテーニュ/空海/シェイクスピア/王陽明/モーツァルト/ラッセル/イグナチウス・デ・ロヨラ/ゲーテ/レヴィナス/チェーホフ/アイソポス/一遍/ジンメル/ホワイトヘッド/タゴール/エマーソン/セネカ/ロダン/ベーコン/クレー/世阿弥/キルケゴール/レオナルド・ダ・ヴィンチ/ベイトソン/バガヴァッド/魯迅/プロティノス/アインシュタイン/エックハルト/明恵/アラン/プルタゴラス/ベルジャーエフ/ラ・ロシュフーコー/ユング/ロレンス/岡倉天心/アミエル/プラトン/ヴェーユ/エリアーデ/オルテガ/デカルト/マホメット/スピノザ/ディドロ/ハイゼンベルク/パス/アシジのフランチェスコ/ベートーヴェン/ファーブル/ニーチェ/鈴木大拙/アーレント/ランボー/ベーメ/フーコー/荀子/ゴーギャン/ウィーナー/ミード/アウグスティヌス/夏目漱石/ヘーゲル/ヒポクラテス/荘子/ダンテ/フランクリン/ブルーノ/フロイト/エラスムス/内村鑑三/ルソー/カフカ/ルター/バシュラール/ボルヘス/司馬遷/ショーペンハウアー/ヴァレリー/カンパネッラ/ドゥルーズ&ガタリ/西田幾多郎/イヨネスコ/朱子/レヴィ=ストロース/リルケ/トルストイ/マキャベリ/ルロア=グーラン/アリストテレス/ベンヤミン/パスカル

あとがき

選書版あとがき

冒頭文出典一覧

事項索引

人名索引

 

【読書】この世界にたった一人で存在すると感じられる瞬間の、そんな「しん」とした静謐さを生起させる美しい文章 ──『旅をする木』(星野道夫)

都会の雑踏や繁華街の喧騒から外れて裏路地などに入ったときに、ふいに現れたひと気のない濃密な静寂に呑まれて、この世界に自分ただ一人だけが存在している、といった感覚に打たれた経験はないだろうか。

もしも、そんな静謐で、ある意味で"神聖な"感覚を味わったことがあるのならば、これから紹介する星野道夫『旅をする木』(文春文庫、1999年)という本は、ふたたびその感覚を想起させるような触媒になるかもしれない。

この本で綴られる著者のアラスカでの生活、アラスカの大地とそこに生きる人びとや生き物たちをありのままの姿で活写した虚飾のない文章は、どれもほんとうに"美しい"。

一読すれば、真に美しい文章とはいかなるものかを堪能できる読書体験が得られるかもしれない。

 

◾️ 出版社案内文

──誰もがそれぞれの一生の中で旅をしているのでしょう。

多くの人に"人生を変えた本"と紹介された、永遠に読み継がれるべき1冊。

あの頃、ぼくの頭の中は確かにアラスカのことでいっぱいでした。まるで熱病に浮かされたかのようにアラスカへ行くことしか考えていませんでした──。広大な大地と海に囲まれ、正確に季節がめぐるアラスカ。1978年、26歳でアラスカに初めて降り立った時から、その美しくも厳しい自然と動物たちの生き様を写真に撮る日々が続いた。その中で出会ったアラスカ先住民族の人々や、開拓時代にやってきた白人たちの生と死が隣り合わせとなった生活。それらを静かでかつ味わい深い言葉で綴った。「新しい旅」「春の知らせ」「オオカミ」「海流」「白夜」「トーテムポールを探して」「キスカ」「カリブーのスープ」「エスキモー・オリンピック」「夜間飛行」など、33編を収録。

 

◾️ 読みどころ私見

仕事が深夜に終わるので、最寄駅から自宅まで、近所の夜道を歩いて帰る。

田舎道なので、途中に「ひと気」が忽然と消える場所があって、そこを通ると、ときおり「この世界に自分ただ一人だけが存在している」という感覚に陥ることがある。

ふだんは仕事のことや世事のこと、周囲の人のことなど、せわしなさに意識をもっていかれて、そんなことを感じて歩いて帰ることはほとんどないが、ごくまれに、こういう不思議な「天上天下唯我独存」を思うことがある。

そんな感覚に身をゆだねたときに、かならずといっていいほど思い出す文章がある。

星野道夫『旅をする木』(文春文庫、1999年)に収められている「オオカミ」という話だ。

 

星野道夫さんは写真家で、アラスカに根を張り、アラスカの「生きもの」を撮ってまわっていた人だ。

個人的に、味わいある名文家だと思っている。

星野さんの文章を読むと、「自分とこの世界との距離」を想起させられる。それは遠いようでいて近く、近いようでいて遠い、そんな関係性で、星野さんはその絶妙な距離感を透徹なまなざしで滋味のある筆致でつづっている。

少々長くなるが、「オオカミ」から引用したい。

 

ぼくはこれまでほとんど誰にも話したことがないようなある思い出を、このルース氷河にもっています。それはこの氷河を初めて訪れたもう十年以上も前のことです。昨夜のようにスキーを駆ってベースキャンプから氷河へ滑りおりていった時のことでした。クレパス帯をたっぷりと覆う雪原の上に、一条の足跡がついているのを見つけました。それはマッキンレー山の方向から、ルース氷河を下ってゆくようにどこまでも続いているのです。一体何の足跡だろうと思って近づいてみると、それはオオカミでした。なぜこんな氷河地帯にオオカミの足跡があるのか、どうしてもわかりません。今日の一羽のホオジロのように、どこかで迷い込んでしまったのでしょうか。それとも四〇〇〇〜六〇〇〇メートルのマッキンレーの稜線を越えて旅をしてきたのでしょうか。それはあまりに不可解で、そして物語のように出来過ぎていると、ぼくは誰かに話すことがなぜかできなかったのでした。可笑しなもので、自分の記憶の中だけにしまった思い出というのは、不思議な力を持ち続けるものですね。ぼくは日々の町の暮らしの中で、ふとルース氷河のことを思い出すたび、あの一本のオオカミの足跡の記憶がよみがえってくるのです。あの岩と氷の無機質な世界を、一頭のオオカミが旅をしていた夜がたしかにあった。そのことをじっと考えていると、なぜか、そこがとても神聖な場所に思えてならないのです

 

やはり、この世界は奇蹟が折り重なってできているのだと思う。

 

◾️ 書誌情報

出版社:文藝春秋 (1999/3/10)|発売日:1999/3/10|言語:日本語|文庫:256ページ|ISBN-10:4167515024|ISBN-13:978-4167515027

▼ 目次・所収

Ⅰ 「新しい旅」「赤い絶壁の入江」「北国の秋」「春の知らせ」「オオカミ」「ガラパゴスから」「オールドクロウ」「ザルツブルグから」「アーミシュの人びと」

Ⅱ 「坂本直行さんのこと」「歳月」「海流」

Ⅲ 「白夜」「早春」「ルース氷河」「もうひとつの時間」「トーテムポールを捜して」「アラスカとの出会い」「リヤツベイ」「キスカ」「ブッシュ・パイロットの死」「旅をする木」「十六歳のとき」「アラスカに暮らす」「生まれもった川」「カリブーのスープ」「ビーバーの民」「ある家族の旅」「エスキモー・オリンピック」「シトカ」「夜間飛行」「一万本の煙の谷」「ワスレナグサ」

あとがき

いささか私的すぎる解説(池澤夏樹)

 

【読書】当たり前だと思うことに慈しみある「なぜ?」を向ける、元祖つぶやきの書 ──『柿の種』(寺田寅彦)

個人的に問答無用の推しの一冊で、当ブログのコンセプトの一端ともなった本である。良本中の良本、"本たるべき本"とでもいえようか、あまり本に馴染みのない人でもすっと入り込める短文集で、本の虫や活字中毒者の方々には一服の清涼剤のようなものとして読める、大正時代を生きた科学者が綴った、現代風にいうのならば、さしづめ「元祖つぶやき集」のようなおもむきの本。

 

◾️ 出版社案内文

日常のなかの不思議を研究した物理学者で、随筆の名手としても知られる寺田寅彦の短文集。大正9年に始まる句誌「渋柿」への連載から病床での口授筆記までを含む176篇。「なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の願いがこめられている。解説 池内了

 

◾️ 私的読みどころ

このブログを書き始めてから、ネタ探しを兼ねて、妙に以前に読んだ本に意識が向かうようになった。

そんななかで、真っ先に思い出したのがこの本、寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫、1996年)である。

 

この本とのつき合いは古い。

なんとはなしに、思い出したように幾度も手に取って読み返す本のうちの一冊である。

特段、出会いやきっかけに思い出のある本というわけでもない。

思い入れはあるかもしれないが、わりかしあっさりとしたつきあいであるように思う。

が、どういうわけだか、ふと思い立って、読み返すことの多い本である。

なんというか、読むと、個人的にこころが整う感じがする不思議な本なのである。

 

これも個人的なものだが、いままで読んできたエッセーのたぐいのなかでは最高峰。随想の真骨頂をみる思いがする本だと感じている。

重ねて個人的見解だが、エッセーは本職の作家や文学畑の人たちよりも、その他の職を本業とする人が書いたもののほうがおもしろい気がする。寺田寅彦も本職は科学者である。ま、これも個人の好みの問題ではあるが。

個人、個人とうるさかったが、最後に個人的に推しの一冊ということで落としどころとする。

 

この本、エッセーではあるのだが、ほんとうに短い、おりおりのことばの断片、短文で織られている。

ので、現代風にいうのならば、さしづめ「元祖つぶやき集」のようなおもむきである。

それゆえに読みやすい。

そして、そんなつぶやきだからこそといおうか、妙に心に残る。

本職が科学者である人が書いただけに、日常のさまざまな出来事や事象に接して、ちょっとした「なぜ?」という探究心を振り向けていて、さらには、その滋味あるまなざしがじんわりと心地よかったりする。

この本にはたとえば、こんなつぶやきがおさまっている。

 

眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分で自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう」(大正十年三月、渋柿

 

最初にこの本を読んだときからずっと、こころのなかに留まっている一節だ。

こんなつぶやきもある。

 

鳥や魚のように、自分の眼が頭の両側についていて、右の眼で見る景色と、左の眼で見る景色と別々にまるで違っていたら、この世界がどんなに見えるか、そうしてわれわれの世界観人生観がどうなるか。……いくら骨を折って考えてみても、こればかりは想像がつかない。鳥や魚になってしまわなければこれはわからない」(大正十年四月、渋柿

 

油画をかいてみる。正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とは違うように描かなければいけないということになる。印象派の起ったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない」(大正十年七月、渋柿

 

夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページに来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。あらゆる「同情」の中の至純なものである」(大正九年十一月、渋柿

 

猫が居眠りをするということを、つい近ごろ発見した。その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見する機会はあるものと見える。これだけは心強いことである」(大正十年八月、渋柿

 

新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある」(大正十年十月、渋柿

 

白い萩がいいという人と、赤い萩がいいという人とが、熱心に長い時間議論をしていた。これは、実際私が、そばで聞いていたから、確かな事実である」(大正十年十一月、渋柿

 

大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」(大正十二年三月、渋柿

 

味わいのある本とは、こういう本のことをさすのだと思う。

 

◾️ 書誌情報

出版社:岩波書店 (1996/4/16)|発売日:1996/4/16|言語:日本語|文庫:304ページ|ISBN-10:4003103777|ISBN-13:978-4003103777

▼ 目次・所収

自序

短章その一

短章その二

注解

解説(池内了)