「春眠暁を覚えず」ということばがあるが、以前のどこかで勘違いをしたのだろう、このことばが「二度寝の悦楽」を謳ったものだと勝手に思い込んでいた。
まあ、語義から大きく逸脱している間違いではないが、思い込みとは素っ頓狂なものである。
それにしても、このことばのとおり、三月、四月、五月というのはほんとうに、朝はもとより日中にかけても、なんとなく茫茫と眠いのだから、昔の人の観察と知恵とにはおそれいったものである。
そして不思議でもある。
春は冬眠から目覚める季節でもある。
生物のバイオリズム、体内時計はそのようになっているにもかかわらず、覚醒に逆行するような習性、現象がそなわっているわけだ。
このまどろみの習性にしたがって、だから最近、とにかく眠かったりするのであるが、そんな折、この話題で、年中昼過ぎに頭をコックリコックリ揺らしている会社の若い後輩と話していたところ、「そういう時期もあるっすよね」と言われてはなはだ不本意だったのだが、「お前の場合、年中、うつらうつらしてるだろう」と指摘してやると、「ああ、あれっすか、あれはパワーナップっす」と言われて、返すことばもなかった次第である。
と、まあ、春は眠い、わけだが、これに加えて最近、わたくしごとで恐縮だが、どういうわけだか、なにかにつけて「面倒くさい」と思うようになって、自分自身に辟易する日々を送っている。
この「面倒くさい」という感覚は、いったいなんなのだろうか。
もっとも、これを疑問に思うという心のはたらきもあるから、その面倒くさいを客体視するような脳内の真面目くさった感覚も一方で有しているのだろう。
自分のなかで二律背反する、厄介かつ難儀な心模様である。
それにしても、「歳をとると万事面倒くさくなる」と人生の諸先輩方が話されているのをこれまで折々に聞いてきたわけだが、この心模様は、そういう年齢に至って、そういうことになってしまった、ということなのだろうか。
なかでもとりわけ、「しゃべる」のが面倒くさいのである。
世間話をするのも、なりゆきでそのまましゃべりはするものの、腹のなかでは面倒に感じているのである。
できれば、しゃべらずにおわらせたい。
まあ、会釈が必要であるならば甘んじて会釈まではするが、話すのまではちょっと遠慮したいと思っているのである。
これは、なんなのだろう。
自分でもよくわからないが、あまり歓迎できない性向であることはわかる。
コミュニケーションを基調とする社会生活を送る上で、これはもっとも面倒くさがってはならない素因のひとつであろう。
おしゃべりがなければビジネスは成立しないし、おしゃべりがなければ人間関係でわかりあえない。
いちいちごもっともと思いはするものの、でも、すいません、面倒くさい。
心底そう感じているのである。
しゃべらないでも済む、たとえばテレパシーのような能力があるならば、どんなに煩わしくないことか、と真顔で考えてみたりもする。
いや、待て、頭のなかに直接話しかけられるのは余計にうるさいんじゃないのか、かえって煩わしいことになるのでは……。
兎に角。
しゃべらないで済むならば、しゃべらないで済ませたいし、伝えたいことがあっても最小限にとどめたい、その少ないしゃべりで、すいません、相手の方はどうにか察していただけませんか、と無責任に思っているのである。
あるいは、逆説的に考えてみるならば、どれほど言葉を尽くそうとも所詮、他人に伝わらないものは伝わらないのであって、それはそういうものなのだから、「だから、しゃべるのって意味なくね」と突き放して開き直ってさえいる心境にあるともいえるのである。
が。
しかたがない。
そんなことを思ってはいるものの、ふつうに乞われればしゃべるし、乞われずとも話すときは話すのだが、必要なければしゃべりたくないと感じていることは確かで、そんなことを格好をつけて明鏡止水に観照している最近、文筆家の内田百閒の随想を読んでいて、こんな散文を見つけて、激しく共感したものである。
「自分で外国語を話すのが億劫なばかりでなく、人の話しているのを聞くのも、うるさい。何の因果で、こんな面倒臭いもので、飯を食う様な巡り合わせになったのだろうと思う。人の書いたものを読まない様にして、自分が人に読ませる原稿を書いているなども、因果な話である。人間の手は、字を書くのに使うものではなさそうな気がする」(「風呂敷包」『百鬼園随筆』)
「本を読むのが段段面倒くさくなったから、なるべく読まないようにする。読書と云う事を、大変立派な事のように考えていたけれど、一字ずつ字を拾って、行を追って、頁をめくって行くのは、他人のおしゃべりを、自分の目で聞いている様なもので、うるさい。目はそんなものを見るための物ではなさそうな気がする」(「風呂敷包」『百鬼園随筆』)
正直、これを目にしたとき、嚢中に物をさぐるがごとく感じ入り、琴瑟相和すの鑑を得た想いであった。あるいはこれは、蛇の道は蛇とでもいおうか(汗)。
ちなみに百間先生は物書きの他にドイツ語の教員もされていたので、こんなことを自分で云っているようでは商売あがったりである。
だが、わかる。
その真情、察してあまりある。
手も目も、そして口も、"そんなことをしゃべるためのものではなさそうな気がする"である。
そして、こんなブログを書いていることも同様に因果なことではあるが、はてなブログは自分に向けた自画自眺? のようなものなので、ここでは一旦、セルフ・エスケープしておく。
それにしてもいったい、どうしてこんなにしゃべることを面倒くさく感じるようになったのか。
それに答えを求めていたわけでもないけれど、またまた最近、たまたまに、こんな本にお目にかかった。
脳科学関連の書籍で、黒川伊保子『成熟脳 ━━脳の本番は56歳から始まる』(新潮文庫、2017年)という本である。
この本には脳科学の知見、また昨今流行りの人工知能開発の知見ないしその観点から、人間の一生を通した脳の発達具合がどのようなものかということについて書かれているのだが、およそ10年前の本なのでエビデンス・ベースとは言い切れない(少々眉唾な)所見もあるとはいえ、しかしながらその主張は魅力的であった。
脳生理学的な観点からすれば、人間の脳の発達は28歳がピークとなるそうである。
しかしそれは生理学的な伸長(拡大)と脳を入力装置に見立てた場合のピークであって、28歳以降の脳を反対に出力装置として見立てるならば、著者曰く「関連記憶力が五十代の半ばから最盛期に入ることもわかって」おり、「人生(人間の脳)の賞味期限は、驚くほど長い」そうである。
卑近に引用させてもらうが、わたしの年齢前後では、脳は以下のような成熟の具合をむかえるそうである。
「五十代の知る本質は、文脈依存の本質。因果関係の真理を言い当てる。どうすればいいか、何が正しいかに迷いがなくなる。六十代に入ると、本質の回路の抽象度が上がり、直感の域に入ってくる。存在の真理が腹に落ちる。ことばにならない納得が、降りてくるのである。野に咲く花にも、人生の真髄を感じるような達観の域に入ってくると、これが本当の脳の成熟期だ。この世の生きとし生けるものの存在意義、あらゆる事象の意味を知る。ことばだけではなく、「腹に落ちる」という感覚で。(中略)六十代に降りてくるのは、ことばの要らない納得である。理由のいらない納得、と言い換えてもいい。(中略)「ことばの要らない納得」脳で出す結論は、めちゃくちゃ、きっぱりしている。理由もあまり語ってくれない。「ああだから、こう」という因果関係で答えを出すわけじゃないから、ことばの補足がしにくいし、面倒なのである。本人にとっても「いきなり、腹に落ちる結論」なので、議論の余地もない。下の世代からすると、いきなり白黒つけて、理由を聞いても面倒くさがり、こちらの言い分を聞かず、「早くそうせい」とせっつくように見える(というか、実際そう)。しかし、これも、わがままなのではなく、深い確信と親切心のなせる業なのである。自分も成熟脳になってみれば、きっとわかる。頑固で、せっかち? とんでもない! 見事なほどに、即断・即決・即行の脳なのだ。瞬時に出た答えであっても、四十代までの「熟慮」「深慮」より、深いところで出す答えである。即断・即決の中に、人生のすべてがつまっている。ことばを添えてくれないからと言って無思慮ではなく、軽率とはほど遠い。成熟脳の言うことには、したがっておいて間違いはない」
これを読むと、この私的な「面倒くさい」にも意味があり、脳の成熟のなせるわざだとする、ていのいい言い訳ができそうである。
まあ、それを周囲に説明するのも「面倒くさい」から、そういうものだとハラにイチモツ抱えて、心の内でほくそ笑んでおこうかと思う次第である。
それにしても、このような年齢のせいかもしれない、やることなすことのすべてが"おっくう"に感じられる、この"いたしかたない"感覚の性起にふれて、ふと、この"億劫"ということばがどんな意味なのだろうと不思議に思い、調べてみた。
すると、想像を絶する壮大な語義だったのである。
「劫(ごう、こう)」とは古代インドの単位で、宇宙が誕生してから消滅するまでの期間を指す、きわめて長い時間(劫波(こうは))をあらわすそうである。
さらに、「億劫(「おっこう」とも読む)」とは、その気が遠くなるような「劫」という時間がさらに「億」倍も重なることで、ほぼ無限の時間をあらわし、この長大・悠久・永遠の時間の長さがが転じて、あまりに時間がかかりすぎて「耐えられない」ということから、「気が進まない」と中継いで、現代では「面倒でやる気が出ない状態」をあらわすようになったそうな。
まさか、このことばから宇宙的規模の無量大数のごとき次元にまで射程が広がるとは思いもよらなかったが、「面倒でやる気が出ない状態」とはそれだけ稀有壮大のなせるものだったということである(これまさしく誇大妄想ともいう(笑))。
ということで、「しゃべるのが億劫」というのは次元を超越するような、あるいは次元上昇のごとき容態といえようか。
── いま、隣で、仕事帰りのウチのカミさんがこたつに寝そべって面倒くさそうにケイタイをいじりながら愚痴をぶつぶつ言っている。
晩メシはまだかな、と念じつつも、こちらはしゃべるのが億劫である。
── その溝をおりなす深淵は、ビッグバンから宇宙膨張が極点に至る期間を億倍するほどに、……あまりにも深い。