粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

徒然なるままに働き雑感

1リットルの牛乳を買って帰ったと思いきや、家で飲む際にパッケージの内容量表示をなにげなく見たら900ミリリットルになっているのを発見して驚いた──という頃がなつかしく思い出せるほどに物価高騰と低価格維持のための商品スリム減量化が定着した現在。

以前の価格に慣れきった世代としては、買い控えはもとより、お金を使うということが、損した気分をとおり越して、どこか虚しさすら感じたりもするものである。

たとえば値段がエグいと思いながら購入したポテトチップスの内容量の異様な少なさには、唖然と辟易を乗り越えて、思考がフリーズ・モードに入りそうである。

そして、それをボソボソと喰う虚しさよ。

あるいはまた、個人的にこれ以上にのっぴきならない問題もある。

現在、酒呑みの甲斐性が試されているのである。

これまで好んで足繁く通った呑み屋通いも、このご時世ではそんなことをする家計的体力は削られて、数軒どころか一軒の店へ行くのにも、もはや一考だにせざるをえない状況に追い込まれるという、こういった虚しい素寒貧の風も吹いているのある。

いまさらだが、このように社会の風向きが変わったと思い知らされるのはやはり、振り返ると「コロナ以前・以後」ということになるのだろう。

あそこで決定的に潮目が変化したのだ。

あらためてそう実感しつつ、もはや郷愁の観もあるハシゴ酒の懐かしさを懐にしまい込んでよよと泣く八方塞がり感に苛まれる今日この頃である。

 

と、そんな所感で徒然なるままに日暮らしする先日、喫茶店で同年輩の友人と駄弁っていて、「われわれはいったい、いつまで働くことになるのか」ということについて、無駄に熱く語りあってしまった。

物価が今後も上昇するならば、もろもろの事態を鑑みて、単純により多く、より長く働かなければならないのか、という発想から始まった話ではあったのだが、いつのまにか「労働とはなんぞや」というところまで話が変転して、なかなかに縦横無尽したさまであった。

そこにちょっとしたひらめきもあって、ということで、そのときの話題をここにしるしておきたいと思ったのだが、あらかじめおことわりしておくと、この雑談は、いま一度「労働」について考える際の、あくまでも愚にもつかない路傍の石なだけであって、なにもその議論に真正面から一石を投じるような内容ではないことはご容赦いただきたい。

ちなみに云う。

友人も自分も年齢的には、いわゆる就職氷河期世代である。

であるが、なにもここでその恨みつらみを吐き出そうというわけではない。

そうではなく、この世代の労働観って、そういえば(バブル崩壊と景気低迷の煽りをくったがゆえに)そんな"イチモツ"を含んでいたよな、という気づきが浮かびあがっただけの、だから、ただの雑感である。

そして、憚りながらあえて云う。

新年度に入り、五月病からの退職代行サービスが繁盛するこの季節。いま一度〈働くこと〉について向き合う際に、この雑感はたいした役にはたたないが、だがしかし、その背面にある《働かないこと》の侘しさというものは、うっすらとでも伝わってほしいと思った次第である。

 

それでは。

イチモツ雑感、その1。

読書案内のほうでも触れたが、物価高騰や円安については、もちろん現在の地政学的な世界情勢の影響が多分にあるのはわかるのだが、それともうひとつ、日本社会の人口減少と労働力不足の問題が大きいことも理解したところである[田内学『お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点』(朝日新聞出版、2025年)]。

mu-you-no-you-blog.net

 

もっともなことだが、働く人がいなければモノは作られない、行き渡らない、サービスもない。そして働かなければ円の価値も高められない。

今後の日本社会はヒトが減る一方で、だから、いまのこの生活水準と制度(システム)の維持は困難であるとの経済的試算は万事出揃っているようである。

たとえば、「日本にはすでに耐用年数を超えた水道管が17万キロ以上あり、修繕が追いつかず、道路が突然陥没する事例は年間 3000 件近くにも及ぶ。予算があっても人手がなければ解決できない問題」(前掲書)だそうだ。

ほかにも「(2040年には)農業を担う人は 2020 年対比で7割も減り、農作物の価格は高騰。空き家は増えても、大工は6割減少してリフォームも進まず、道路や橋の75%が老朽化し、あちこちで通行止めが相次ぐ可能性がある(中略)地方によっては配送が完全に止まったり、救急搬送されても受け入れてもらえなかたりする地域も出てくる。31の道府県では、生活維持サービスの4分の1を我慢しなければならないと予測されている」(前掲書)。

いまさらながら、このことはやはり衝撃といっていいだろう。

前掲書の著者、田内氏はこう云っている。

「生活に欠かせない分野で、軒並み人手不足が深刻なのは、仕事の重要性と年収が必ずしも一致しないという構造的な歪みがあるからだ。社会を支える重要な仕事でも、高い年収を得られるとは限らないのが現状だ。老後への不安が高まるほど、人々は稼げる仕事へと流れていく。「お金を稼げる人が偉い」という空気が、その流れをさらに加速させる。(中略)その結果、教育・介護・交通など、暮らしの基盤となる分野が崩れ始める。皮肉なことに、「お金に不安を抱く社会」が社会基盤の人材供給を歪めてしまっているのだ。もちろん、給料をあげれば一定の人材は集まるかもしれない。だけど、それだけでは足りない。働き手が不足しているのは、生産年齢人口(15歳から64歳の働く世代)が減り続けているという構造的問題に根ざしている。2023年に発表されたある報告書は、2040年の日本社会では、深刻な労働者不足によって、社会インフラのあらゆる分野で崩壊のリスクがあると警告している。お金はあるのに、何も買えない──そんな奇妙な社会が、すぐそこまで迫っている」(前掲書)

 

これはつまり、同書の副題にもはっきりと明示されているように、いかなる世代でも、もうすでに前提として「一生働く時代」になっている、ということなのだろう。

ということを、友人に話すと━━

 

「なるほどな。まあ、うすうす勘づいていたけど、《働かないでいい》という意味での"老後"は、もはやないということだな」

「そう。年金もらって悠々自適な老後生活というイメージは、遠いむかしの幻想なわけですよ」

「よほどの金持ちでもないかぎり、いや、金持ちでも、家に水道、ガス、電気が供給されないような世の中なら難儀するよな。カネの力を使ってそれを解決しようにも、いや、そもそもカネの力さえもなくなるってことなのか? カネがあっても、水道、ガス、電気を送ってくれるヒトがいなくなるってことなんだもんな」

「俺さ、むかしインド旅行したときに、ホットシャワー付きのホテル泊まって感動したんだよね。それまで、それがない安宿をまわってたからさ、熱いお湯を浴びたときの快適さといったら、なかったね。社会インフラが成立していて、しかも維持されているというのは、それだけで尊いことだと実感したわけよ。今後の日本はそれも享受できなくなるかもしれない」

「なかなかに強フックな余命宣告ではあるよな。オレの仕事って、そういうのとは無縁の業種だし、心入れ替えて早期退職して、そういうインフラ整備の職人仕事にでも就くかね。まあ、体力に自信はないけど」

「いきおい、そうも思うよな。なんらかのかたちでインフラ維持に関わらなければ、そもそも自分の生活自体が立ちいかなくなるってことだもんな」

「それにしても、これって、死の床に着く直前まで働き続けなければならないってことなのだろうか……」

「それを想像すると、やっぱり、げんなりするよな……」

「げんなりだな……」

 

イチモツ雑感、その2。

現在、わたしも友人も 1970年代生まれの労働現役世代であるが、子どもの頃に見せられた「21世紀の未来社会」を生きている。

「鉄腕アトム」こそ放映されていなかったが、「ドラえもん」はふつうにテレビで活劇していて、新作映画も毎年の恒例のように上映されていた。

ブラウン管のなかでのび太が猫型ロボットとなんのためらいもなくふれあっていた姿を観ていたのはもちろんのこと、『ドラえもん』の多くのエピソードのなかには「未来編」というものもあって、そこで大人になったのび太たちは《働いていなかった》ように記憶している。

こまかなところまで憶えていないが、あるいは物語の設定上のなんらかの職業、もしかしたら未来にあるであろうなんらかの役割にはついていたのだろうが、少なくとも〈労働〉はしていなかったように思う。

なぜなら〈労働〉は、ロボットを含めた「機械」が担っている描写が随所に挿話されていたからだ。

だから、子ども心にこう思っていた。

科学技術は、人間が《働かなくていい》社会を実現しようとしている、と。

青年になれば、こう言い換えられるだろうか。

科学技術の進展は人間を〈労役〉から解放してくれるためのものである、と。

実際、ほとんどのテクノロジーがそうやって実例を示してきた。

家電ひとつとってみても、それは明らかであろう。

炊飯器、洗濯機、掃除機など、それが存在しない時代であれば人がいちいち手作業で複数の工程を時間をかけてこなしていたものを、ボタン一つで済ませてしまう革新である。

あるいはその前段、水くみ、火おこし、衛生関連、地ならし・整地、田畑を耕やす、モノを運ぶから、果ては見知らぬ土地への移動までも、科学技術伸長の上書きによる社会インフラの敷設と拡大で、文明は確実に開花してきたのだ。

だから、その延長にある未来に〈労働〉はない。

当時、テクノロジーにまつわる言説のなかにはおそらく、こういった前提は自明のものとして含まれていたはずだ。

現在、ここにきてAIが人間の知能を凌駕するということに恐れを抱く向きもあるが、後の祭りである。

そもそも科学技術というものは、人間に比肩する"人間的なもの"をつくり出そうとしてきたわけだ。

そして、その"人間的なもの"が人間の労苦を代替する。

だから21世紀、人間はもう《働かなくていい》 ━━

 

「さっき死ぬまで働き続けるのかとげんなりしていたのに、今度はこれかよ」

「でも、そうなんだよな、老後も含めて将来、いやその先の未来までも、《働かなくてもいい》ようになるために、〈いま働いている〉んだった」

「そうだよな、うん、そうなんだよ、〈いま働く〉ことの意味は、この先《働かない》ためのものだったはずだよな」

「そうなんだよ……、そうだよな……、そうなのか?」

「……あのさ、最近、AIに仕事を奪われる職種ベストなんちゃらって話題で盛り上がってるけれど、あれってどうなん?」

「どうもなにも、たんに今後、需要が高まる職種とそうでない職種がどうなるかってだけで、そんなのいままでも事あるごとによく話題にされてきたことなんちゃうん?」

「まあ、そうなんだけど、それをぜんぶドラえもんに任せるということに抵抗があるということなのだろうか?」

「《働かない》ために、機械に全部やらせようとして技術を発展させてきたのに、いまさらだよな」

「ドラえもんが人智を超える存在になることにビビってるだけなのか? それとも《働かない》ことに対する畏れなのか?」

「でも、まあ、さっき話してた将来の労働力不足を考えると、AIとテクノロジーで不足を補っていかなければ困る状況なわけだよな」

「それは、そう思う」

 

前掲書でも、「人材不足により労働の価値が急速に高まる一方で、AIの発達というもう一つの大きな波も迫っている」と述べている。

そもそも「私たちの給料が物価以上に上がってきた本当の理由は、(中略)効率化によって仕事を減らしてきたことにある。歴史がそれを証明している。産業革命や高度成長期に暮らしが豊かになったのは、機械化で生産効率が高まり、多くのものを安価に手に入れられるようになったからだ」(前掲書)とした上で、前掲著者はこうも述べている。

「かつて江戸の町では、商店の10件に3軒が炭薪問屋だったそうだ。生活に欠かせない炭や薪を買うために、町民たちはその店を利用していた(山室恭子『大江戸商い白書』)。だが、今の東京にはその痕跡すら見当たらない。炊飯器のスイッチ一つでご飯が炊けるようになったからだ。私たちは、かまどの薪で火を調整する面倒な仕事から解放された。同時に薪を売る仕事も消えた。この事実をどう捉えるべきなのだろう。子どもは素直だ。「面倒な仕事は、なくなったほうがいい」と言う。だが大人は戸惑う。仕事がなくなれば、生活が立ち行かないからだ。「薪屋は消えたけど、電気会社や家電メーカーが生まれた」と自分を納得させてみる。だが、AIやロボットが仕事を奪った後に、新しい仕事が本当に生まれるのか。確信はない。「イノベーションが必要だ」「高付加価値を生み出せ」最近よく聞くこうした言葉も、その多くは仕事を生み出すことを目的に使われている。矛盾しているのだ。面倒な仕事を減らしたいと願いながら、いざ仕事が減り始めると不安になる。人手不足が深刻化する時代に仕事を減らせなければ、忙しさだけが増え、生活の豊かさからは遠ざかってしまう」(前掲『お金の不安という幻想』より)

 

「ところでさ。老後も未来の世界も、将来《働かない》ために、〈いま働いている〉っていうのはわかるんだけど、この〈いま働いている〉っていうのも、なんだか眉唾に感じることも多いよな。たとえばさ、会社に出勤して、その日、ほんとうに詰めて集中して仕事してるって感じるの、オレの感覚だと正味、2、3時間もない気がする。反対に、会社にいるのに《働いてない》と思える時間のほうが多いようにも感じるんだよね、正直なところ」

「それはある。たしかに"その仕事、いる?"と思うような業務もたくさんあるし、必要な仕事のなかでさえも、一見すると十分条件を満たしているものの、必要条件ではない、よくよく見直すとあってもなくてもいいような、あるいは中身が"あさって"な業務を追加して冗長なものにしたりすることもあるしな」

「だよな。そういうムダを排そうとして、国策としても働き方改革なるものを押し出しているんだろうけどさ。でも、効率化を推し進める一辺倒で、現場で余計な仕事が増えたり、不具合が生じることもなきにしもあらずだから、なんともいえんけどな。まあ、方向性としては、わかる」

「実際、会社のなかで働いているようでいて働いていない人ってけっこう見かけるし、会社にいるだけで働いた気になってる人なんてのもわりかし多かったりするからな」

「わかる。オレらの先輩の世代の人たちだって、"24時間、働けますか"みたいな感じで、家庭崩壊すらも度外視して働いてたなんてイメージもあるかもしれんけど、一方で、営業に行った出先の脇の喫茶店で、タバコ吹かしながら、よくわからん仕事論みたいものをえいえんと、何時間も聞かされたことあるもん、オレ。あれ、仕事してないよなって思う」

「だよな。むかしって、会社で新聞ずっと読んでる上司とかいたしな。事情はどうあれ、〈働いてる〉《働いてない》でいったら、あれ、たしかに《働いてない》よな」

「そう。今はわりかし、そういうの減ったように思うけど、それでも時間拘束されているだけの、業務内容の薄い、今ふうにいうならばタイパの低い実態はおうおうにしてある」

「そう考えると、〈働いている〉ようで、じつは《働いていない》、実態として《働いていることにはならない》、ということはすでに常態化してるってことだよな」

「うん。だから《働かない》という事態にすでに慣れっこになっているというか。仕事が奪われることへの不安とか、メディアでヤンヤ言ってるけれど、実際は、《働かない》ということに案外すぐに順応できるのかもしれないしな」

「だよな。だったら、仕事がなくなることへの不安って、なんなん? ってことになる」

「それに、裏っ返せば、そんなんでも仕事ってまわるっていうか、業務って、ぎゅっと濃縮させれば、案外、それほど時間かけずとも終わるものなのかもしれないしな」

「まあなぁ。でも、一方で、仕事ってわりと雑用みたいなものが効いてくるってことあるじゃない。雑用の積み重ねこそが仕事っていえるかもしれないし。そういうの含めると時間はかかったりする」

「それもそうか。でもそんな雑用をAIとかがやってくれるわけだろ、今後は」

「まあ、そうなるのかな」

「結局、今後の社会の展望を考えると、労働の選択的集中みたいなものが必要不可欠なのは理解できる。効率化ってそういうことなんだろうけど、その選択から自分の働きが洩れるっていうことが、不安ってことになるのかな、この〈働くこと〉にまつわる不安というのは」

「まあ、人の役に立つ立たないでいったら、役に立たないっていうのは、さみしいよな」

「たしかに。《働かない》って、そういうさみしさはあるな。会社のなかでも、周囲から役立たずと思われるのが、いちばん堪える気がするしな。これは、どんなポジションにあっても、そう思う」

「そうよな。でも、それだって、ロール・プレイをこなしているかどうかって尺度で測られているような気もするから、仕事の本質からすれば、どうなんだろうか?」

「モノを売るにしろ、サービスを売るにしろ、仕事は本来、お客の役に立つかどうかに帰結するし、そこに本質があるから、社内のロール・プレイとかほんとうは意味ないもんな」

「なんだか忘れがちだけど、世の中にある、あらゆる仕事って、そもそも誰か人のために成立しているものであって、仕事を、たとえば自己満足とか生活費を稼ぐためとか、"自分のために"って思うことは、ある意味、見当違いの考え方なんだよね」

「そうな。たとえば「仕事をする」が"カネを稼ぐ"にすり替わると、"自分のために"って、思うようになるのかもしれない。でも結局、仕事に就くこと自体が、社会参加していることになるから、だれかのための働きということにはなるかな。これは、まあ、真っ当な会社にいることが前提になるかもだけど」

「これって当たり前のことだし、青臭い議論のようにみえるけど、やっぱり抜き差しならないことだよね」

「それにしても、勤務実態の面からみて、〈働いている〉と《働いていない/働いたことにならない》の境界って、けっこう曖昧なものだよな」

「うん。成果とか、客からの評価やレスポンスは一旦、置いておくにしても、《働いたことにならない》徒労ってやつが、仕事の大部分を肉付けているってことは、ままあると思う」

「仕事の密度が測れるならば、スカスカかもしれないってわけだよな」

「そう思う。たとえばさ、さっきの先輩の話じゃないけど、いまここでしてる、こういう会話って、仕事中にだれかと話したりするじゃん」

「まあ、そうね」

「人間関係の円滑化とか、職場環境の向上に必要なコミュニケーションとか、いろいろと理由は付けられるかもしれないけれど、これって、本筋の対顧客相手の仕事からすると、まったくもって不要な、《働いたことにならない》徒労にあたるわな」

「……そうね」

「まあ、そういうことですよ……」

「……そうね」

 

イチモツ雑感、その3。

ところで、「働かざる者食うべからず」ということばがあるが、これはもう呪詛のようなものなのではないかと、上記のつれづれなる会話と昨今の時流とをさまざまに鑑みると、思えてくるのである。

テクノロジーの進展は明らかに「働かなくても食ってもいいよ」という方向に駒を進めようとしているわけだし、この社会のなかにはさまざまな事情から「働きたくても働けないよ」という歪な状況であえぐ人たちがいたりもする。

これを改善せずして「働かざる者食うべからず」といってしまうことの無慈悲さは、あるいは望まない仕事で「食うために働く」ということをしている人びとの怨嗟のようにも聞こえなくもない。

まずもって、この歪んだメンタリティをどうにかしないと、〈働く〉ということをフラットに眺めることはできないだろう。

「働かざる者食うべからず」というのは一種の強迫観念であり、社会的弱者と"他者"(働かない者)とを切り捨てる排斥の思想になりうるのであり、これからの時代にもっともそぐわない標榜になるのではないだろうか。

実際、働かざる者が働く者の数を凌駕する超高齢化社会は目前に迫っている。

そして最近、この「働かざる者」をめぐる興味深いSF小説を読んだので、ここでちょっと紹介したい。

小説なのでネタバレ御法度ということで、以下、出版社の紹介文の引用にとどめるが、これまでの徒然なる「〈働くこと〉/《働かないこと》」一考の一助になりうる内容で、それぞれ面白く読ませてもらった次第である。

 

・野崎まど『タイタン』(講談社タイガ文庫、2023年)

「今日も働く、人類へ。至高のAI『タイタン』により、社会が平和に保たれた未来。人類は《仕事》から解放され、自由を謳歌していた。しかし、心理学を趣味とする内匠成果【ないしょうせいか】のもとを訪れた、世界でほんの一握りの《就労者》ナレインが彼女に告げる。「貴方に《仕事》を頼みたい」彼女に託された《仕事》は、突如として機能不全に陥ったタイタンのカウンセリングだった━━」

 

・柞刈湯葉『未来職安』(双葉文庫、2021年)

「令和よりちょっと先の未来、国民は99%の働かない〈消費者〉と、働く1%のエリート〈生産者〉に分類されている。労働の必要はないけれど、仕事を斡旋する職安の需要は健在。いろんな事情を抱えた消費者が、今日も仕事を求めて職安にやってくる。ほっこり楽しい近未来型お仕事小説!」

 

ざっと読後の印象を簡単にコメントしておくならば、前者は〈働くこと〉の意義を真正面から問いなおす内容で、後者は《働かない》未来人たちの(働く現代人たちから見れば)ちょっと風変わりな仕事観を垣間見るといった内容である。

個人的には後者を面白く感じたのだが、どちらもSFジャンルでは新進気鋭といえる作家なので、やはり読ませるものがあった。

それにしても、すでに転職することが当然の時代になって久しいが、自分に照らして振り返ってみれば、仕事に疲れたり、ときには辛くなって辞めたくなるような場合があっても、たいがいが業務や作業それ自体に対してではなく、そこに絡む人間関係に辟易してということが大半だったりするわけで、じつは仕事自体は嫌いでなかったりもする。

要は、「仕事」自体はそもそもフラットなものなのだ。

そこに色をつけるのが、そこに関わる人たちの〈働く〉ことであり、人間の活動の在り方なのであって、心理学者アドラーにしたがえば、「すべての悩みは対人関係の悩みである」ということになるのだろう。

現在の社会では〈働くこと〉と対人関係はおおよそ切り離せないことだが、それを切り離そうとしているのがAIとロボットによる《働かない》未来社会であるならば、〈働く〉活動はなくなったとしても、結局それ以外の場面(対人関係)で、人は相変わらず悩み続けるのだろうなと、これら双方の小説を読んで夢想した次第である。

煎じてみれば、〈働く〉も難儀、《働かず》も難儀ということで、テクノロジーが創設する《働かない》社会の出現によって、先にも述べたが、人の役に立つ立たないという観念がより希薄化するようならば、《働かない》未来に一抹のさみしさなり、侘しさなりを感じたりもするのであった。