粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

鼻から豆

地上波のテレビ番組を視聴しなくなって久しい。

ということで、茶の間ではもっぱら YouTube を観ているのだが、YouTube だけを観ていると、世の中の流行り廃りがわからなくなるときがある。

これがわたくし個人だけの"錯誤"にあたるのかはわからないが、挙がっている動画が必ずしも最新のものばかりが並んでいるわけではないので混迷するのだ。

2、3年前、ときには10年以上前の動画もふつうにオススメに並ぶために、平素、サムネだけみて動画のアップロード日など意識していない受動視聴者からしてみれば、あとになって「ああ、この動画、じつはけっこう古かったのね」と気づいたりする。

 

それで先日、ちょっとした恥をかいた。

といっても、取るに足らない瑣末なことなのだが、行きつけの呑み屋で常連の相席客と話をしている際に、「そういえば最近、イギリスのテレビ番組で日本のお笑い芸人が一発芸で大ウケしてるの観たよ」と話したところ──

「それ、誰ですか?」

「ほら、あれ、ええと、パンイチで、全裸に見えるやつ」

「ああ、とにかく明るい安村ですね。それ、2、3年前に流行ったやつですよ」

「えっ、そうなの?」

「そうすよ。イギリスのオーディション番組みたいなやつ(註:ゴッドタレントという番組名だそうです)ですよね。ていうか、いろんな国で同じ趣旨の番組もやってて、それらの番組には、それ以後も続々とけっこういろんな芸人やら、ダンサーやらが出てますよ」

「えっ、そうなの?」

「そうす。しかも、それぞれそれなりに話題になってますよ」

「あら、そうなのね」

──と、こんな顛末である。

言われてみて、動画のアップ日を確認したところ、たしかに2年前となっていた。

それからというもの、視聴の際には、妙にアップロード日を気にし出す始末である。

 

似たような錯誤に陥っている方がもしくはおられるのならばわかっていただけるかもしれないが、そうなってくるともう、世の流行り廃りの感度は劣化するどころか、すでにどうでもよいものになってくる。

結局、個人の興味関心を追いかけるだけになるから、メディア上で"機能的に"いくら「共有」を促し促されようとも、それは確実に"個別化"するばかりである。

これを仮にシステムの側が誘導しているのなら、その意図はどこにあるのだろうか、といった感じで邪推することも、すでに、もう億劫な塩梅である。

もはや、ひと昔前の「トレンド」なることばで指し示したような文化的? 経済的? 現象というものは、昨今、意味をなさなくなっているのではあるまいか。

そういった「共通認識」は瓦解し、しかも時代の速度がこれを後押しもする。

昨今、世の中の変化のスピードが速いのは確かなんだろうけれど、速すぎて、その速さについていけない、というよりは、その速さを認識できない、というか、加速する側の仕様変更によって「最新」を共有できにくくなっている、とでもいおうか。

もうこうなると追いつこうとするのにも息切れがするし、価値観の共有なぞどうでもよくなってくるというか、お手上げというか、投げやりにもなりたくなる。

メディア上にリアルタイムをひとまとめにしたトピック・サイトなり、なんなりはあるのだろうけど、そこまで念入りにそれをさらうとか、最新情報を追いかけたところで、だからなんなん? とでも云いたくなってくる現況である。

そうやって"極私化"まで振り切らされることで、われわれはいったい、どこから眼を背けさせられるよう仕向けられているのだろうか──。

兎に角。

この分断と極私的時代錯誤を呈する状況に、なんとも煮え切らないような、笑えない苦味を感じたりもするのである。

 

ところで。

呑み屋での会話の内容自体に戻るが、こむずかしいことを抜きにして、くだらない一発芸やギャグというものは、やはりいいものである。

なにも考えず、瞬発的に笑う。

馬鹿馬鹿しければ、莫迦莫迦しいほど、なおいい。

イギリスの聴衆が安村氏(現地では「Tonikaku」と名乗っていた)のフリ全裸芸で爆笑しているのを、動画で観て笑い返すのも、こんなくだらないことで笑うのね、という価値の「共有」ができて、また気分がよかったわけである。

笑いというものが文化的かつ知的に洗練された側面をもちあわせるがゆえに異文化間でその価値をなかなかに共有しづらい部分があることを百も承知しつつも、なんといおうか、ポジティヴな意味で「低俗」である部分で理解し合えるという事実が、なんとも胸のすく思いがしたものである。

くだらない笑いこそ、国境を越えるということなのだろう。

しかも、それが妙に記憶にも残る。

だいぶ以前に、それこそ昭和?平成?のテレビ番組で観たように記憶しているのだが、日本のお笑いが海外に通用するのかということで、劇団ワハハ本舗の俳優・梅垣義明さんが、ドラッグクィーンの格好をしたシャンソン歌手に扮して、たしか昭和の名歌手・越路吹雪の『ろくでなし』を歌いながら「鼻から豆を飛ばす」という持ちネタ芸を海外の聴衆の前で披露するという企画があった。

いまでも強烈に記憶しているのだが、海外の観客たちが、涙を流しながら、腹を抱えて苦しそうに爆笑するという快挙を目にしたわけである。

その番組には何組かのお笑いタレントも出ていたと思い出すのだが、「くだらなさ」でいえば私見で梅垣さんがピカイチであった(尊敬)。

なにせ、舞台で熱唱しながら「鼻に豆を詰めて、それを飛ばす」だけである。

あるいは、最近? 近年? だと、これは芸というわけではないが、テレビ番組『イッテQ』の「マイケル・ジャクソン選手権」という企画が、同じく海外の人の爆笑を買っていた。

どのような趣旨かというと、なんのことはない、爆竹に火をつけてその上に空き缶を置き、その上に尻をかまえる。爆竹の破裂によって缶が吹っ飛び、尻に当たって、痛みで千鳥足になるのを、故マイケル・ジャクソンのムーンウォークになぞらえて、その痛がる歩きっぷりを笑うという企画である。

これを海外の人の前でやってみせたところ、とんでもない熱量の爆発的な笑いが巻き起こったのをテレビ画面で目撃したわけである。

お笑いタレントのロッチ中岡氏がやってみせたシーンは圧巻で、まるで呼吸困難に陥らんばかりの観客の笑いに辺りが包まれていたほどだった。

ありていにいって、ただただくだらない。

たんに尻の痛みに悶絶して、尻をおさえながら、ヨロヨロと歩くだけの姿なのだが、その姿に涙だがちょちょ切れんばかりである。

しかも、爆竹と空き缶を使うというチープさもなおいっそうの笑いを誘い、この感覚は万国共通のなのであろう。

「くだらなさ」はここでも、割れんばかりの笑いを共有したわけである。

 

と。

まあ、そんなことを思い出しながら最近、こんな文章を見つけた。

まったく見当違いの方向からではあるが、澁澤龍彦『東西不思議物語』(河出文庫、1982年)を読んでいたところ、こんな断章にお目にかかった。

 

 

「屁っぴり男のこと」と題された随想で、短いので全文、以下に引用しておく。

 

安永の屁っぴり男の話は、平賀源内の『放屁論』にも出ているし、木村蒹霞堂の『蒹霞堂雑録』にも出ている。安永三年、まず江戸の両国橋の付近で、次に大阪の道頓堀でそれぞれ興行し、大向こうをやんやと喝采させた、天才的な芸人である。当時は大へんな評判だったらしい。三味線、小唄、浄瑠璃に合わせて、おもしろく屁をひり分けるばかりか、ありとあらゆる音を模するのである。

源内によれば、「まず最初が目出たく三番叟屁トッハヒョロヒョロピッピッピと拍子よく、次が鶏東天紅をブブブウブウとひり分け、そのあとが水車ブウブウブウとひりながら、おのれが身体を車返り、さながら車の水勢に迫り、汲んでは移す風情あり」というのだから、すごい名人芸もあればあるものだ。

源内もつくづく感心して、こんな屁っぴり男はまさしく前代未聞であり、日本ばかりでなく、唐土朝鮮をはじめ、天竺オランダの国々にも例がないだろうと言っている。ところがどっこい、世界は広いもので、安永の屁っぴり男から百年ばかりたったころ、フランスはパリで、かの日本のチャンピオンによく匹敵するかとも思われる、これまた天才的な屁っぴり男が現れたのである。

一八九一年、当時の名高いミュージック・ホール「ムーラン・ルージュ」の音楽監督をやっていたツィドレルという男のところへ、ひとりの男がたずねてきた。自分は生理的な特技をもっている、という触れこみである。

「生理的な特技? そりゃまた何だね」と音楽監督がきくと、「ムッシュウ」と男は真面目くさって答えたのだった。

「私の肛門には吸引性がございます。水を入れた洗面器を持ってきてくださいませんか。ひとつ、証拠をお目にかけますから……」

洗面器がくると、男はズボンをおろして、水の上に尻をつけ、驚きあきれて見ている音楽監督の目の前で、洗面器の水を残らず吸いあげてしまった。吸いあげたかと思うと、今度は排出し、また吸い上げる。自由自在なのである。

「ふうん、こりゃ大した芸だ。しかしお前さん、舞台では何をやりたいんだね」と音楽監督が聞くと、

「はい、じつは屁の曲ひりをやりたいんで」と男は答える、「私には、水と同じように、空気も自由に吸ったり出したりすることができますんで……」

と言ったかと思うと、男は上体を前屈みにし、尻をうしろへやや突き出すようにして、たちまちフランス国家ラ・マルセイエーズのリフレインを演奏? しはじめたので、音楽監督は手を打って喜び、すぐその場で契約書のサインをしたという。

さあ、それからが大へんな騒ぎである。有名なシャンソン歌手のイヴェット・ギルベールが回想録のなかに書いているが、「ムーラン・ルージュ」のせまい客席で、つめかけた見物人は押し合いへし合い、腹をかかえて笑い、涙が出るまで笑いころげた。あんまり笑ったので、痙攣を起こす婦人もあった。劇場ぜんたいが一つの昂奮の坩堝と化し、その笑い声やヒステリックな叫び声は、百メートル離れた場所からも、手にとるように聞こえたという。

ベル・エポック(良き時代)と呼ばれた世紀末のパリの、最も言語道断なアトラクションともいうべきものが、この屁っぴり男のショーだったであろう。男はその名をピュジョルといい、当時三十四歳、四人の子供の父であった。屁の曲ひりのほかにも、この男には、三十センチ離れたところから、屁の力で蝋燭の焔を吹き消すという得意芸があった。

マルセル・ボーデュアンという医学博士が、この屁っぴり男の生理学的特異性を医学的にくわしく報告しているが、それをここに紹介する余裕がないのは残念である。他日を期したい。

 

結局、いつの時代も、世の東西を問わず、ばかばかしさやくだらなさ、「低俗」のうちにこそ、笑いの本質といおうか、いまここにあるという感覚の共有のタネがあるようである。

時代が加速し、価値観が分断され、時間が極私化したとしても、「くだらない笑い」だけは確かにそこにあるということである。