粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

【読書】"ないないづくし"の豊かさとは?──『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克巳)

今回紹介する本はタイトルそのまま、奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(新潮文庫、2018年)なのですが、まずもってこの本の問いの立て方がじつに興味深い。

まずはそこから読んでほしいのですが、先史から狩猟採集社会を営んできた東南アジアのボルネオ島に暮らす森の民プナンのもとでフィールドワークしてきた著者が、定住農耕社会を前提とするわれわれの現代社会とはあきらかに異質な彼らの発想、考え方、通念に触れて驚き、われわれの尺度からすればあまりにも"いいかげんな"彼らの生活態度に振りまわされながらも、そのなかにさまざまなもの発見をしていく過程は、読んでいてほんとうに目から鱗が落ちます。

著者いわく、森の民プナンの人びとの社会には「ない」「ない」「ない」、ないものばかり。われわれの社会が当たり前にあると思っているものが「ない」、それがなければ生活が成り立たないだろうと思われるものが「ない」。でも、どうして彼らの生活は豊かで幸せなのだろう?

この問いかけに少しでも関心を寄せられるのならば、本書をご一読することをおすすめします。

 

 

◾️ 出版社紹介文

やらかしても謝らない! 屁が目覚まし代わり !? 子育ては共同体で。死者の独特な悼み方。

凝り固まった価値観から自由になれる! 今を生きる狩猟採集民プナンの驚くべき生活。ボルネオ島の森で、狩猟採集中心の暮らしを営む人々、プナン。彼らは借りたものを壊しても謝らず、礼も言わない。感謝や反省の概念がないのだ。所有感覚も希薄で、食料は皆で分け合い、子どもも実子養子の区別なく育てられる。長年フィールドワークを続ける著者は、資本主義にとらわれないプナンとの生活の中で、人間の生の可能性を思考していく──。常識をひっくり返す、刺激に満ちた一冊。

 

◾️ 読みどころ私見

本書は、人類学者である著者が東南アジアのボルネオ島(マレーシア、インドネシア、ブルネイの3国からなる熱帯の島)で暮らす狩猟採集民、プナンと呼ばれる人々をフィールドワークした、その観察の記録と考察の書である。

まず、この人類学者が立てた問いかけが、個人的に非常に関心をそそった。

少々意訳させてもらうが、現代の日本社会ないし先進国と呼ばれる世界に生きるわれわれのマインドや考え方、通念はそもそも、人類史でいうところの定住農耕社会の在り様を前提にした発想に裏づけられてしまっている。

そこにはわれわれが自明なものとして疑うことのない囚われた思い込みがあって、発想自体がその前提から逃れられないがゆえに、われわれの社会でなにか問題が起きたときに、それを真に客観視したり対象化して見直すような視点を持ちえないことになる。

であるならば、それ以前の社会、すなわち狩猟採集民の社会をつぶさに観察すれば、その「定住農耕民とは異なる遊動民のエートス」「人類は元来こうあったのではないかと思わせてくれる行動やアイデア」「人間の根源的なやり方や考え方」を見出すことができるのではあるまいか──。

この問いかけはまこと、なかなかどうして、腑に落ちんばかりであった。

 

本書はこのような視角と著者の誠実なる真情の吐露とで、かなりの示唆に富むフィールドワーク記となっている。

著者の人類学者としての的確な観察による、プナンの民たちが示してくれた「別の生の可能性」は、これまたたいへんに興味深いもので、著者も述べているとおり、「彼らの暮らしは、狩猟採集に根ざしているという意味で人類史的には古いのだが、科学とテクノロジーに頼って近未来を志向する、現代に生きる私たちにとって、そんなものがほとんど想像されたことがないという点で、新しいのである」。

本書を読み進めるとほんとうにそう納得できて、そんな魅力的なプナンの人たちの生活や社会がありありと活写されているのだが、ここでいくつか引きあいに出してみると、まず本書のタイトルにもあるとおり、プナンの人びとのあいだには「あいさつ」というものがないそうなのである。

 

「伝達機能を持たないが、一体感を生み出すような社会的な機能を持つ話し言葉を用いることを、〈交感言語使用〉と呼ぶ。プナンには、「おはよう」や「こんにちは」「元気ですか」「さようなら」といった定型句がない。つまり交感言語使用がほとんどないのである。人々がずっと一緒に行動し、密に接して暮らしていると、一体感を生むために交わす言葉などほとんど必要ないのだといえよう」[90頁]

 

とはいうものの、いちおう、この交感言語にあたりそうな常套句というものはあるそうで、それがなんと、「勃起してるか?」だそうである(笑)。

 

「しかし、離れたところに暮らしている親しい男同士の間柄で、挨拶代わりに交わされる言葉を耳にすることがある。「元気ですか」に代わるのが、"buat nyi ?"や"agak nyi ?"である。nyi とはペニス、buat は長い、agak は立つという意味である。両方とも「勃起している」という意味になる。それらが、挨拶言葉になることがある。「勃起しているか」は「元気ですか」という意味である。さもありなん。使う相手や場所をまちがえると相手を侮辱することにもなりかねないが、それらの句は、親しい間柄の二人の男が出会った時に、冗談っぽく発せられることがある。男同士が出会った場合だけでなく、日常の会話の中で男たちが冗談を言い合うような場合にも、"buat nyi"(長いペニス)、"jaau nyi"(大きいペニス)、"dee nyi"(血がみなぎったペニス)、"agak nyi"(隆起したペニス)という言い回しがよく聞かれる。女好き、女殺し、色魔、デカチン野郎……というような意味合いである。共通しているのは、それらがすべて「勃起」を意味しているという点である。プナン語には、勃起を言い表す語句がなんと多いことか。(中略)勃起という言葉は、おおらかにプナンの日常にあふれている。勃起は、男性個人の下半身の現象としてけっして隠されない」[90-91頁]

 

だそうである。

いきなり下ネタかい、と突っ込まれそうだが、関心をそそぐべきはそこではなく、「あいさつのことばがそもそもない」というところだろう。

われわれからしてみれば、あいさつせずしてそもそもどのように人と交流するのかと考えてしまいそうだが、プナンの人びとにとってはそれを必要としない、いや、はなから「ない」そうである。

 

ところで、本書を読み進めるとまざまざと感じられるのが、この、われわれ定住農耕社会前提民が当然あるだろうと考えているものが、プナンの社会にはことごとく「ない」、──その「ない」が溢れているのである。

その「ない」ものをざっと列挙してみると、「ありがとう」「ごめんなさい」「反省」「お金」「うつ病」「ちゃんとする」「男尊女卑」「無理強い」「シングルマザー」「愛想」「平日と休日」「薬指」「浮気」「モテ・非モテ」「将来の心配」「東西南北」「ひとりじめ」「お墓」「遺品」「説教」「上下関係」などなど、これらすべて、われわれの社会では自明に「ある」とされているものが「ない」のである(註:ここでの例は、後述する本書の続編ともいえる後掲書『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』から引用した)。

なかでも印象的なのが、「反省」が「ない」ということで、この概念についてはわれわれの社会と比較するにベンチマークたりうるものなので、ここで興味深く引用させてもらおう。

 

「狩猟や漁労に出かけたり、用事で出かけたりする時、失敗や不首尾、過失について、プナンは個人に責任を求めたり、「個人的に」反省を強いるようなことをしない。失敗や不守備は、個人の責任というより、場所や時間、道具、人材などについての共同体や集団の方向づけの問題として取り扱われることが多い。失敗や不守備があれば、話し合いの機会を持つが、そこでは、個人の力量や努力などが問題とされることはまずない。ましてや個人の責任が追求されるようなことはなく、たいてい、長い話し合いの後に、あまり効果を期待できそうにない今後の方策が立てられるだけである。なんとも不思議なのである」[47頁]

 

「プナンは反省しない。とにかく、そう感じられる。しかし、反省しないとは、はたしていったいどういうことなのだろうか。翻って、人が反省するとはいったいどういうことなのか。こういう問いが、解けない謎として残りつづけている。たしかなことは、プナンが、私自身がそれまでは考えてもみなかったことを、考えてみるよう仕向けてくれたということである。反省しない生き方というのは、おそらくストレスがたまらない。その意味で、現代日本社会で、反省しないで暮らせたならば、なんて気が楽になるだろうかと感じられて、反省しないで生きていくことを宣言したくなる誘惑に駆られる。どうして、日本社会では反省しないで過ごすことができないのだろうか。いや、反省しないでやり過ごしていくこともできるのだろうか。そういうことをひっくるめて、プナンは、反省するという人間行動に関して、わたしたちに大きな問いを投げかけている」[48-49頁]

 

「反省しないことは、プナンの時間の観念のありように深く関わっているのではないか(中略)。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている」[56-57頁]

 

こういった観察と考察とをしぼり出した著者であるが、実際にプナンの地でともに生活してこれを実体験した諸々のエピソードはかなり面白いので、ぜひに本書を手に取っていただきたいのだが、プナンのこの時間の捉え方、時間感覚についてはさらに突っ込んで、こんなことも述べているので、少々長くなるが引用しておきたい。

 

「未来についても、プナンはほとんど語ることはない。「将来、私はこうしたい、こうなりたい」ということを、共同体のリーダーや小学校を出た数少ない「エリート」以外は、ほとんど口にしない。子どもに対して、「将来、何になりたいの?」と、将来の夢を尋ねることは、まったく意味をなさない。このことは、ひとつには彼らが時間軸を想定して、軸の先のほうまで考えることがないことに関係しているように思われる。ふたつには、プナンが都市や遠くに働きに出かけることがほとんどなく、生まれ育った森での暮らしの中に自己完結するような人々であり、職業や生き方の選択肢がないことに関係している」[84頁]

 

「プナンとしばらく一緒に暮らしていると、私たちとは異なる時間が流れていたり、時間に対する感覚が違っていたりする「異文化の時間経験」よりも、より根源的な意味で、そこには時間の観念がない、あるいは時間の観念が薄いと感じられるようになる。(中略)プナンに生年月日を尋ねると、老若男女、答えられる人は誰一人としていない。自分がいつ生まれたのかを覚えてもいないし、周りの者も誰も知らないのである。考えてみれば、西暦や年号および月日を用いて生まれた日を特定するという、誕生をめぐる日本および先進諸国の習慣に基づいて、プナンに生まれた日を尋ね、それに対する答を期待する私自身による問いの設定のほうが問題なのであろう。年月日によって生まれを言い表すことは、人類の普遍的な表現の様式ではないのだ。そうだとすれば、プナンは、自分の生まれた日付を覚えていないというよりも、これまで、そういったことを認識したり表現したりする術を持たなかったし、言い表す必要もなかったのだと考えるべきだろう」[80-81頁]

 

「私たちは、一生をかけて何かを実現したり、今日の働きで何かが達成されたりすることをひそかに心に描いて働いている。あるいは、現在の暮らしの水準を維持するために働くということがあるかもしれない。ところが、プナンは、これこれのことを成し遂げるために生きるとか、将来何かになりたいとか、世の中をよくするために生きるとか、生きることの中に意味を見出すことはない。(中略)プナンは、向上心や反省心を持ち、人間としての完成に近づいていくという「直線的な時間」を生きている私たちとは異なる時間形式を生きていることになる」[331-332頁]

 

こうやって読み進めると、時間感覚というものが定住農耕社会の成立と発展を経て人工的につくり出されたものであることが如実にわかるような気がする。

そして、それ以前の狩猟採集社会の、それが「ない」社会の豊穣さというものが浮き彫りになってくる思いがするものである。

さらには、プナンの"ないないづくし"の豊かさは、もちろんこれだけにとどまらない。

この「ない」ことによる逆説的な豊かさ、本書のもうひとつの骨子ともいえる「持たない」ことの豊かな精神性についても、触れずにいくわけにはいくまい。

 

「プナン社会では、与えられたものを寛大な心ですぐさま他人に分け与えることを最も頻繁に実践する人物が、最も尊敬される。そういう人物は、ふつうは最も質素だし、場合によっては、誰よりもみすぼらしいふうをしている。彼自身は、ほとんど何も持たないからである。ねだられたら与えるだけでなく、自ら率先して分け与える。何も持たないことに反比例するかのように、彼は人々の尊敬を得るようになる。そのような人物は、人々から「大きな男(lake jaau)」、すなわちビッグ・マンと呼ばれ、共同体のアドホックなリーダーとなる。そうしたリーダーのあり方は、高級なスーツを身にまとったり、高価な時計を腕につけたり、ピカピカの高級車を乗りまわしたり、平気で公金を私的に流用したりする先進国の(一部の)リーダーたちとなんと違っていることか。与えられたものを他人へとすぐさま与えて、ものを循環させるスピリットを持っていれば、彼のもとには、その徳を敬い、彼のことを慕う人々が集まる。彼の言葉は、集まってきた人々に受け入れられ、人々を動かす原動力になる。ビッグ・マンの口から言葉が発せられれば、人々は狩りに出かけるし、言い争いは鎮められる。逆に、彼が個人的な慾に突き動かされるようになり、与えられたものを独り占めして出し惜しみし、財を個人の富として蓄えるようになれば、彼が発する言葉はしだいに力を失っていく。それだけでなく、人々はしだいに彼のもとを去っていく。その時、ビッグ・マンはもはやビッグ・マンではなくなっている。プナンは、ものを惜しみなく分け与えてくれる男性のもとへと集うのである。なぜそこでは、このような社会道徳が発達してきたのか? それは、食べることと生きることに深く関連するように思われる。狩猟に出かけて獲物が獲れなくても、隣の家族で獲物が獲れた場合には、そちらに行って食べさせてもらう。逆の場合、つまりこちらで獲物が獲れてあちらで獲れなかった場合、こちらはあちらに惜しみなく食べ物を分け与える。そうすることで、共同体の誰もが、空腹に困らず、つねに食べることが可能になる。つまり、ものがあるときに惜しみなく分け与えることで、ものがないときに分け与えられることを保証する仕組みが築かれてきたのである。モースは、社会全体に自然の恵みが行き渡るこうした交換様式を「全体的給付体系」と呼んでいる[モース、二〇〇九]。その仕組みを支えるために、プナンでは「ケチはダメ」という規範が広く浸透しているのだと思われる。ものをもらった時、何かをしてもらった時に、相手に対して感謝の気持ちを伝える「ありがとう」という表現は、プナン語にはない。ふつう、贈り手に対しては、その場では、何の言葉も発しない。他方で、「ありがとう」に相当する言い回しとして、"jian kenep"(よい心)という表現がある。それは、「よい心がけ」であると、贈り手の分け与えてくれた精神性を称える表現である。感謝されるのではなく、分け与える精神こそが褒められるのである」[72-74頁]

 

著者の観察によれば、この「持たない」精神、「分け与える」精神、「分かちあう」精神性は、けっして生得のものではなく、後天的に彼らの社会が全体で育んでいるものだそうだ。

 

「ある時のことである。私が幼児に飴玉をいくつか与えると、彼女はそれらを独り占めしようとした。周囲にいる子供が欲しそうに眺めていたが、幼児は飴玉をしっかりと身に引き寄せて手放そうとはしなかった。母親がそれを見て、傍にいた子どもたちにも分け与えるように促した。最初は怪訝な様子だったが、母の教えに従って、幼児は飴玉を他の子どもたちに配り始めた。プナンは、そのようにして後天的に、与えられたものを分け与えるという規範を社会に広く行き渡らせてきたのである。ものを惜しみなく分配するという寛大な精神は、けっして生まれながらのものではない。ケチの小さな芽は、見つけられたらただちにつぶしにかからなければならない」[70頁]

 

「興味深いのは、分け与える対象が、たんに〈もの〉だけではないという点である。プナンはすべての人物に、あらゆる機会に参画することを認める。機会もまた分け与えられる。何かをする時に、独占的にするのではなく、みなで一緒にしようとする。(中略)行きたいと主張すれば、プナンは、老人であれ子どもであれ、森の中の狩猟に連れて行く。ヒゲイノシシをしとめるハンターでなくても、その人物が、獲物の肉の運搬、薪割りや解体・料理など、何らかの役を担ったならば、しとめられた動物肉を売った時には、家族がひとつの単位として、売上金を均等に分配する員数に数えられる。狩猟に行く時、私は銃弾を購入して、ハンターたちに手渡すことがある。そのことにより、私にも獲物を販売した代金を均分した分配金が与えられる。ヒゲイノシシの肉を自分たちで消費する場合には、獲物を撃ち殺した人物が、多少多めに肉の分け前を得るとか、脳や睾丸などの最も美味なる部位をもらい受けるということはけっしてない。プナンは、参画したメンバーの間の平等な分配に執拗なまでにこだわる。みなが見守る中で、ヒゲイノシシの肉は、関係するメンバーの間できっちりと均分されねばならない。仕事の量や地位を見計らって、誰かに偏って分配することは、プナンの掟にはない。逆に言うと、分配作業の過程で、そうした重みづけの要素は徹底的に排除される。この世界に存在すると考えられるすべての〈もの〉は、参加したメンバーの間で均分される。とにかくプナンは、ある〈もの〉を、得た〈もの〉を均分することにこだわって生きてきた」[127-128頁]

 

これはわれわれの高度経済成長資本主義社会からいちばん遠いところにある精神性なのかもしれない。

とうの昔に、われわれが切り捨ててしまったものがプナンの地にいまだ現存していることに、逆に奇妙な安堵すらおぼえる。

そして、この精神が失われてしまったことによって、まざまざと感じられる苦い咎のようなものは現在、実存のレベルでさまざまな弊害と機能不全を起こしているようにもみえ、あるいはわれわれの現代社会でのさまざまな病相とその症状を露見させているようにもみえるのである。

「分かちあう」ことはもちろん、われわれの社会でも美徳として語られるものだし、なんなら、ビジネス書でさえ「与える」ことの重要性を説くものも多いが、そもそも、われわれは根本的に「持つ」ことを前提とした社会に生きているのだ。

「持たない」ことの根源的な豊かさを知り、「持たない」がゆえに、よりいっそう「持たない」ことを社会の基軸に据えようとするプナンの人たちとの本書を通した邂逅は、鏡像のようにわれわれの社会のあり方に問いかけている。

はたして、このままでよいのか、と。

 

最後に、ビッグ・マンのエピソードに触れて思い出したことをここに付記しておく。

かつて、この国には、東北の地で諸国を放浪し、津軽三味線を弾きながら門付けをしてまわる盲目のブルースマンがいた。

名を高橋竹山(初代)という。

演奏旅行というと聞こえはいいが、その実、門付けというのは、町や村の家々をまわり、各戸の門にはりついて唄と三味線を披露して、言い方は悪いが"無心をする"(路銀をせびる)というものだ。

当然のごとく迷惑がる人たちも多く、どこへ赴いてもなかなか演奏も聴いてもらえず、ましてや盲人であると差別され、石まで投げつけられて追い払われるようなこともあり、つねに困窮する旅まわりだったそうである。

そんな寒さと飢えで餓死をもしそうな旅先のなか、竹山に手を差し伸べてくれたのは、自分と同じような貧しい境遇の人たち、北海道の炭鉱で強制労働に駆り出されていた朝鮮人の集団だったそうだ。

後年、名の売れた竹山は、そのとき助けてくれた朝鮮の人たちから教わった「アリラン」を彼らのことを思い出しながら演奏したが、そのときに聴衆に必ずこう語って聞かせたそうである。

曰く、わたしに(施しを)「与えて」くれたのは、もの「持たない」人たちだった。

もの「持つ」人たちは、わたしに「与えて」はくれなかった。

わたしと同じように、もの「持たない」人たちこそが、わたしに「与えて」くれたのだ──と。

 

追記①:本書の後発で出版された姉妹書とでもいうべき、奥野克巳、吉田尚記『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』(亜紀書房、2025年)のほうもおすすめしておく。

著者のプナンへのフィールドワークにニッポン放送のアナウンサー・吉田尚記氏が同行し、その際の二人のもろもろの雑感をまとめるといった内容になっている。

また、こちらのほうは対談・鼎談形式で構成されており、いや、もっとざっくばらんに雑談形式で、プナンでのフィールドワークの内容をあれこれとおしゃべりしてくれている(『文化人類学ラジオ』というポッドキャストで放送された)。

対談の相手は、石川善樹氏(予防医学研究者)、仁村ヒトシ氏(アダルトビデオ監督)、佐伯ポンティ氏(猥談系YouTuber)と、なかなかにとがった人選で、面白く読ませてもらった。

同書は今回紹介した本よりも当然読みやすく、さらには現地での裏話や脱線話、どちらかというと下ネタ寄りの話も忌憚なく話してくれていて、取っ付きやすく、ご興味あればこちらから読まれるのもいいかもしれない。

 

 

追記②:高橋竹山(初代)については次の一冊を紹介しておく。

津軽三味線の演奏家なので、リリースされている幾つかの音源を試聴されんことはもとより、竹山の東北・北海道での放浪と演奏をテーマにした映画もいくつか制作されているので、そちらもおすすめしておきたい。

また現在も YouTube 上に関連動画が多数アップされているので、ご興味ある方はそちらもどうぞ。

 

 

◾️ 書誌情報

出版社:新潮社|発売日:2023/4/26|版:文庫|言語:日本語|本の長さ:388ページ|ISBN-10:4101045712|ISBN-13:978-4101045719

▼ 目次・所収

はじめに|1.生きるために食べる|2.朝の屁祭り|3.反省しないで生きる|4.熱帯の贈与論|5.森のロレックス|6.ふたつの勃起考|7.慾を捨てよ、とプナンは言った|8.死者を悼むいくつかのやり方|9.子育てはみなで|10.学校に行かない子どもたち|11.アナキズム以前のアナキズム|12.ないことの火急なる不穏|13.倫理以前、最古の明敏|14.アホ犬の末裔、ペットの野望|15.走りまわるヤマアラシ、人間どもの現実|16.リーフモンキー鳥と、リーフモンキーと、人間と|おわりに──熱帯のニーチェたち|文庫版あとがき|参考文献|解説 吉田尚記