
せわしない現代とは対照的に、江戸の世は天下泰平。
だからこそ暢気さもここに極まれり、といった噺を本日はご紹介。
この噺、落語のまくらの常套句である「毎度ばかばかしい」を地でいく内容なのですが、なんというか、そこがなんともいえず羨ましい、ただただのんびりとした時代を楽しんでもらえればいいというだけの噺であると云えます。
ギスギスしたところがない、能率やノルマなんて言葉とは無縁の太平楽な時代。
もしも文化というものが心の豊かさと比例するものなら、江戸時代のほうが現代よりもはるかに先進的だったのかもしれません。
◾️ あらすじ
江戸の世はいたって泰平。町人のあいだではさまざまな稽古事が流行っていた。
長唄、小唄、常磐津、舞踊、ちょっと高級な部類だと義太夫、そして茶の湯に華道。風変わりなところでは喧嘩指南に釣り指南などなど。
おおよそ趣味といわれるものには、たいていは指南所があったそうな。
で、近所にそんな指南所ができれば、新しもの好きの江戸っ子のこと。習ってみたくなるのもこれまた人情。
そんなこんなで、長屋に住んでいる暇人が近所の友だちの家へひょっこり顔を出すところから噺は始まる。
「ちょっと、つきあってくれねぇか」
なにをと思えば稽古事。町内に新しく「あくび指南所」ができたという。
あくびの指南?
話を聞いた友だちはあきれかえってしまう。
習うにことかいて、あくびだと。そんなものに金を払ってどうする。あくびなぞ、ほおっておけば自然に出る。わざわざ習いにいくなんて、ばかばかしい。
ところが頼みに来た男はやる気まんまんである。
指南するぐらいだから、きっと普通とは違うなにかがあるはず。ぜひ一度、習いたいとがんばる。
「そばにいてくれるだけでいいからさ」
根負けした友人は、俺は絶対にやらないからなと念押しして、しぶしぶ同行することになった。
歩いて行くと、たしかにうわさの「あくび指南所」の看板が出ている。
おもてから覗くと、先生なる人物が出てきて、じつに愛想よく応対した。
「お一人は見学と。けっこうですよ。長くはかかりませんから」
さて、いよいよあくびの稽古が始まった。
「いいですか、いつもみなさんがしているのは、駄あくびといって、下品なものです。これから教えるのは風流なあくびです」
先生は、春夏秋冬、四季のあくびがあるので、まずは希望を聞きたいと尋ねる。
選べと言われても皆目見当がつかない。
「それじゃ、いちばん楽な、夏のあくびにしましょうか」
夏の昼下がりに舟遊びをしているという設定だそうな。
ゆったりと舟に揺られ、キセルをくゆらせながら船頭に声をかけるところで、思わずあくびが出る。
「舟もいいが、退屈で退屈で"ファ〜ッ"ならねぇや、と、こうです」
先生が手本を見せる。
どうぞ、とばかりにやってみるが、本人はのみこみが悪く、何度やってもぎこちなくサマにならない。
体の揺すり方、声のかけ方、そしてかんじんのあくびの出し方。案外と複雑で、なかなかどうしてむずかしい。
先生も根気よく繰り返し教えるが、それでもダメ。
しまいには、あくびではなく、くしゃみが出てしまった。
そのうちに、そばで見ていた友人がいいかげん疲れて、飽きてきた。
「けっ、ばかやろうが。くだらないものを稽古してやがら。まったく、なにをやってんだか。教える奴も教える奴だが、教わる野郎も野郎だ。たいがいにしろってんだよ。稽古をしてるてめぇらはいいかもしれねえが、それを見ている俺の身になってみやがれってんだ。ああ、もう退屈で退屈で"ファ〜ッ"ならねぇ」
思わず大あくび。それを見て先生。
「うまい!お連れさんのほうが器用でいらっしゃる!」
◾️ 落語のことば補説
▼ 指南所・稽古所
古く中国で使われた、つねに南方を指す磁針、これを装置した車を指南車と呼んだが、指南車が戦争や公共事業で役に立ったことから、方向や進路を教え、物事の習得を導くことを"指南"というようになった。
日本でも指南番、指南役、指南坊、指南書など、教育者から解説書、武術・芸能といった幅広い分野で用いられることばである。この噺のように、江戸期には横丁で町師匠が構えていた稽古所・稽古屋のたぐいでも「指南所」という看板を掲げていて、たとえば寺小屋なども、ある種の習字指南所ということになる。
江戸期に町内に少なくとも一軒はあるといわれるほど指南所・稽古所が繁盛した背景としては、学歴優先の現代とは異なり、「芸は身を助ける」という実学・実益重視の近世にあって、屋敷奉公や嫁入り支度のために庶民もこぞって稽古ごと、習いごとをたしなんだという。
稽古事のなかには「五目の師匠」と呼ばれる、なんでも教える、なんでも屋のような教導もいて、そこはいわば身近なレジャー施設として機能し、庶民も足繁く通ったそうである。
落語でも『汲みたて』『猫忠』など、指南所・稽古所を舞台としたこの手の噺は多い。
▼ 舟遊び
現代人であれば屋形船を思い浮かべるかもしれないが、当時、大名・豪商が乗ったこの屋形船は落語がおもに描く時代では皆無に等しく、この時代の川遊山(水辺観光)では「屋根船(やねぶね)」と「猪牙(ちょき)」が活躍したそうである。
屋根船は船頭一〜二人仕立てで、四人乗り程度。屋根があっても屋形船にはある障子はなく、軒先から簾を下げた。猪牙は一〜二人乗りで、船足も早く軽快だが、屋根がなくて揺れがある。
船賃は、そばのもり・かけが十六文のころ、柳橋・山谷堀間が猪牙で百四十八文、屋根は一人仕立てが四百文、二人仕立てが五百文だったそうだ。
◾️ 鑑賞どころ私見
じつにのどかで、じつに莫迦莫迦しい指南所があったもので、それを大の大人が真剣に習おうというのだから、笑わない道理がない。まさに落語の真骨頂とでもいえる内容の噺である。
江戸時代、実際に趣味の習い事というのは流行っていたそうで、踊りや音曲が人気だったそうだが、落語のほうでも稽古所通いにうつつを抜かす人びとの様子を描いた噺はいくつもあり、たとえば稽古事自慢が嵩じた末の騒動を描いた『寝床』のような名作がある。
しかも、もしかしたら「あくび指南」のごとき習い事があったかもしれないと、民俗芸能評論家・研究者の永井啓夫氏が述べている。
「長門市の旧家・吉松家には一八三七年(天保八年)刊、賢恵法師作の寺小屋用教科書三巻が所蔵されている。女子用の内容は全部絵入りで、婦女の守るべき道や医療、百人一首など必要な常識がすべておさめられているが、その中に「あくび」の項もある。つまり婦女子があくびをするときは、つつしみぶかくしないと愛想をつかされるというので諸注意がくわしくのべられている。若い娘さんたちを前にして寺小屋の師匠がこのくだりを実演をまじえて教えている場面を想像すると──とんと落語の「あくび指南」そのものである。あくび指南所とは落語作者の創作かと思っていたが、案外、四季それぞれに応じたあくびまで教えてくれる熱心な教育者も多かったのかもしれない。江戸時代はやはり、泰平のよき時代というべきなのであろう」(矢野誠一『落語手帖』より引用)
まさしく皆んなして"ファ〜ッ"とやっていたのならば、なんとも楽しきかな、日本人よと、現代だからこそ声を大にして言いたい文化的豊穣さを感じるところである。
この演目、もともとは上方の噺だったそうで、原題「あくびの稽古」が東京に移植されたものとのこと。
新旧噺家のなかでもやり手は多く、個人的には江戸前の方に演者が多いような気もするが、このネタの場合、なんといっても五代目古今亭志ん生が傑出しておもしろく、その存在感は大きいだろう。
もちろん、他方で噺家それぞれにその持ち味を発揮させるネタでもあり、三代目三遊亭小圓朝は描写の確かさにかえって可笑しさが宿っていたし、逆に淡々と演じて味わいのある五代目柳家小さん、それをさらに飄々と演じて魅せた十代目柳家小三治、志ん生流を受け継いだ十代目金原亭馬生など、好演も粒揃いである。
ところで、もとよりこの噺、噺家にとって難儀なところは当然"あくび"そのものの演じ方にあって、このあくびの出来がまずいようではお噺にならない。そのような意味で若手落語家の登竜門に位置付けられるネタであるともいえる。
これについては、寄席でのちょっとしたエピソードもあり、「あるとき、まだ若い落語家が昼席の高座にこの噺をかけていたところ、あまりにもヘタクソだったので、一席終わった途端に、客席から大きなあくび。これを見てその落語家が一言。「お客さんのほうが、ご器用だ!」」と、機転を効かせた見事な返しを披露したことがあったそうだが(林家たい平『はじめて読む古典落語百選』より引用)、噺の呑気な内容とは裏腹に、演者を選ぶ、噺家にとってはなかなかに手ごわいネタなのだ。
能天気な勢いだけでは押し切れない技芸が要求されるあたり、以前にどこかで聞いた話だが、ある若い噺家がこのネタを演じるにあたって、ほんとうにあくび指南所のようなところがあれば、どれだけ助かることか、と洩らしていたそうである。
あくび指南に事欠いて、芸の道はやはり厳しいのだなと客の身空でもしみじみと感じさせられる、じつはそんなお噺なのである。
◾️ YouTube 視聴
[2026年5月現在、視聴可能な動画となります]
▼ 映像あり
・柳家小三治[十代目]:https://www.youtube.com/watch?v=wfMPGC5hSTY
▼ 音声のみ
・古今亭志ん生[五代目]:https://www.youtube.com/watch?v=D1-rYFdFgEQ
・古今亭志ん朝[三代目]:https://www.youtube.com/watch?v=eajkGpoq8tw
・金原亭馬生[十代目]:https://www.youtube.com/watch?v=xW1OULJtLEg
・柳家さん喬:https://www.youtube.com/watch?v=fTm57mYhSTk
◾️ 参照文献
・矢野誠一『落語手帖』(講談社+α文庫、1994年)
・京須偕充『落語名作200席(上・下)』(角川文庫、2014年)
・榎本滋民 著、京須偕充 編『落語ことば・事柄辞典』(角川文庫、2017年)
・立川志の輔 選/監修、PHP研究所 編『滑稽・人情・艶笑・怪談… 古典落語100席』(PHP文庫、1997年)
・林家たい平『はじめて読む古典落語百選』(リベラル文庫、2021年)