今回も極私的推しの本、古東哲明 『瞬間を生きる哲学 〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書、2011年)を紹介させていただきたいのですが、この本をおすすめしたいのは、表題にあるとおり、「現代はなぜ、先のことばかり考えさせられるよう仕向けられているのか?」という問いを共有したいとの思いがあるからです。
心のどこかで「先々のことばかり心配するようになって、どこかおかしくないか」と少しでも感じたことのある人ならわかってもらえるかもしれない、「いまを生きる」ための読書案内です。
◾️ 出版社紹介文
私たちは、いつも先のことばかり考えて生きている。だが、本当に大切なのは、今この瞬間の充溢なのではないだろうか。刹那に存在のかがやきを見出す哲学。
わたしたちはいつも、"いつかどこか"のために、日々をやり過ごしている。はたしてこれは生きているといえるのだろうか。ほんとうは最も大切な"今ここ"の充溢こそをかみしめるべきなのではないだろうか。瞬間に立ちあがる、その刹那の存在のかがやきを、哲学者をはじめ作家や漫画家、シンガーソングライターらの仕事に見出し、瞬間を生きる技法を提示する。
◾️ 読みどころ私見
本書の読みどころのハイライトというのが、個人的に、いきなりやって来て、それだけで本書の虜になったことを、まず記しておく。
冒頭での著者自身の体験をつづった「波照間島幻想」という題の以下引用がその箇所である。
まずはこの箇所だけでも読まれんことをおすすめしたい。
「なにもかもいやになり、八重山諸島をさまよっていたことがある。沖縄がまだ日本のなかの異国だったころ。反戦活動に疲れはて、パインやサトウキビ工場で働いては、あてもなく、南海の島々をぶらぶら渡り歩いていた。
そんなある日の午後。日本最南端の波照間島に行ったときのことである。
毎日、海を眺めてばかりいる少年と出会った。
聴けば、ほとんど学校に行ってないという。砂浜に座し、太陽のひかりを体いっぱいに浴びながら、あるときは泳ぎ、あきれば沖合に舟を漕ぎ出し漁をして、一日をのんびり過ごしているのだという。目もとが、とても涼しい少年だった。
ちょっと気になり、「なぜ学校へ行かないんだ」と、兄貴づらしてたずねてみた。
すると、「どうして学校へ行かなきゃならないんですか?」と、聞き返してきた。
「勉強し、知識を修得し、立派な大学に入るためさ」と、とおりいっぺんの答え(学歴社会で「幸福のパスポート」という)をすると、間髪をいれず問い返してきた。
「知識を修得し、立派な大学へ入ると、どうなるんですか?」
ウッと詰まりながらも、「望みの優良な職場で働けるようになり、そうすれば高給をえて快適な家も買え、幸せに暮らせるようになるさ」と答えると、
「で、それから?」と、さらに問い詰めてくる。
「それから……、それから常夏の南国にでもいって、毎日のんびり、好きなことをして暮らせるようになるさ」。そう、窮しながら答えると、少年は高笑い。
「そんなことなら、もう毎日、ぼくが今ここでやっていることじゃないですか。」
まるでジョークのような話だが、ぼくには全存在を否定されるほどの衝撃だった。」
この衝撃、小生自身も身に詰まされる思いがしたものである。
個人的な体感の話をさせてもらうと、自分には若い時分からつねに、この現代社会を生きていて、「どこか空回りさせられているのではないか」とのモヤモヤした感覚がつきまとっていた。
それが、本書のこの箇所にめぐりあって、それをはっきりと自明のものとして捉えることができ、晴れあがるような衝撃を受けた次第である。
本書でも指摘されているように、現代社会では、どういうわけだか、先々のことばかりを考えさせるような話題が巷にあふれている。
いや、そういう話にすり替わるよう、どこか仕向けられているような気さえする。
これは年齢を問わずだ。
子どもの時分であれば、「将来どうするのか?」「何者になりたいのか?」「進路先はどうするのか?」と、ことあるごとに問われる。
大人になったらなったで、就職先や働き口のことはもとより、「マイホームはどうする?」「将来のリスクのために保険に入っておくか?」「老後の資金はどうする?」などと見通しも希薄な不安にかられ、挙げ句の果てには自分の葬式や死後の相続など、自分の死んだ後にまで心を砕くありさまである。
これすべて"いま現在"の話ではない。
これではいったい"いま"はどこへいったのやら、こころ"ここ"にあらずに終始していて、ほんとうにこれで"生きている"といえるのか。
このような問いはそれまでの自分のなかでずっと燻っていて、本書によって開放される思いがしたのだ。
そして本書はこの地点をもってして、この不可解な現代の時間概念の在りようを語りを始めるのである──。
これだけで、自分にはグッとくるものがあった。
そこから著者はまず、時間というものが自然にあるものではなく人工的につくられたものだということをつまびらかにしてゆく。
そして近代から現代にかけて歴史的に形成されてきた社会構造がその人工的な時間を使って先のことばかりを考えさせるよう仕向ていると説いている。
この解題ついては、小片になるが、僅かばかり以下に引用しておこう。
「時間(計測時間・時刻)は〈観念〉だということ。しかも、しつけと同じように、後天的に教え込まれた習慣的約束ごとにすぎぬ、ということである。だから、「時間を持つ」ためには、「教育(schooling)」(I・イリイチ)しなければならない」[本書44頁]
「エリアスもいうように、時間意識や時間体制はあくまでも、ぼくたちが社会化する過程で第二次的にうめこまれたものである。「当事者は生まれつき備わったものと思う」のだが、そして「あらゆる人間に普遍的な贈り物」と考えがちなのだが、とても文化的でローカルな観念。しかもそれは、「逃げることができない強制力」」[本書47頁]
「世界は「速度」に支配されている。より速く、より遠くへ走るように。それに拍車をかけるのが自由主義経済体制、つまり資本主義的産業構造である。その正体を、「前望構造」(project)と看破したのは G・バタイユだ。project とは語義的には「前に(pro)+投げること(jacere)」。投機、生命保険、貯蓄利子、年金、株式配当などにみられるように、資本主義経済システムは、未来の利得や成果をあてにし、いまこの時この場で味わえる悦びや成果はお預け式の経済構造である。資本主義体制というと、私欲や利潤をあくなく追求する、功利性と営利性を最終目的とする獰猛な経済システムを、つい連想しがちだが(その側面もあるが)、じつはそれはとてもストイックなしくみだ。なにごとかの価値(富)を味わえるのは、いまこの現在の瞬間においてより他にはないのに、その享受を我慢し、先送り。目前の財富にこだわっていては、未来に約束された〈もっと大きな富〉を逃すから。そう想わせ、人を社会を、前のめりに動かしてしまうのが、資本主義経済の骨格をなすこの前望構造である」[本書37頁]
「今この時この場を消失させ、未来時を肥大させる時間意識も、勤勉で能率的な日本人の生産態度も、ようやく一九二四年前後から本格化したものであり、歴史的に無理矢理形成されたものである(中略)「時は金なり」の時間感覚も、勤勉の「美徳」も、まだ八十年ほどの歴史しかない。浅い歴史だ。日本人の勤勉さなんてものは、だから一種の神話なのである。勤勉実直な日本人は強引に作られたものだ。身体訓練と金銭欲システムの押しつけによって」[本書57頁]
閑話休題。
上記でおもしろいと感じたのは、日本人が勤勉であるというイメージについて言及した直近の箇所である。
勤勉のイメージがこういったある種の印象操作でつくられたというのも、言われてみて納得、当然といえば当然で、思えば、落語好きを自認する自分にしてみれば、江戸時代に生きた人びとに思いを致すと、なぜこれまでこの日本人の勤勉さのイメージに違和感をおぼえなかったのか、不可解としかいいようがない。
あれだけ江戸時代に生きる人びとの自由闊達さに憧憬をおぼえていたのに。
たとえば「宵越しの金は持たぬ」という諺が残っているとおり、日本には、行き当たりばったりの、きっぷのいい《今ここ》という感覚がたしかにあったのだ。
この件について自省というか、後悔ひとしきりである。
話を戻すと、本書の前半では上記引用のとおり、現代人が先行きのことばかりになぜ囚われてしまうのかという論点で著者なりの分析を試みており、その碩学ぶりに驚かされるのだが、後半は「では、どうすれば《今ここ》をとらえることができ、いかにして《今ここ》を生きることができるのか」というテーマに移ってゆく。
後半からも、若干ではあるが引用しておこう。
「問題はそもそも現実が、露顕しないことをその唯一の〈現れ方〉としていることに由来する。つまり、あるときは隠れあるときは現出するようなモノ〈存在者 ens 〉ではなく、隠れるという仕方でしか〈現れる〉ことができないこと〈存在 esse 〉だということである」[本書80頁]
難解ではあるが、《今ここ》は、「あるようでなく、ないようである」としかいえないもののようだ。
つまり、《今ここ》はそう簡単にはとらえられない、ということである。
なぜなら、《今ここ》と認識したそばから《今ここ》は即座に過ぎ去り、《今ここ》をつかんだと思ったその手から即こぼれ落ち、《今ここ》ではなくなってしまうからである。
当然といえば当然のことだ。《今》ということを考える際に、誰しも一度はこのような考察に至ることがありはしなかっただろうか。
「人間は、一日に十八万七千もの思いをいだくという。だがその九八%は、過去の記憶の再生。聞くもの、見えるもの、想うことのほとんどが、昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけに、いやでも自動的にふち取られてしまう。既知の概念や解釈が、ぼくたち本人の意思を超えて、暗黙理に即座に分泌され、刻一刻に新鮮であたらしく、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景を、「過去化する」。だから直下のいまここの瞬間を、それ自体として「現在的に生きる」ことがない。一瞬一瞬、たえず過去の風味で味付けされてしまうから、ピュアに斬新で現在的といえるのは、ほんの二%だけということになる」[本書73頁]
ならば、どうやって、そのほんの二%の《今ここ》を味わうことができるのか、どのようにしてその《今ここ》を生きることができるのか ━━。
これについては、ぜひに本書にあたっていただきたいと思う。
ネタバレどうこうではなく、この箇所の論考にこそ著者の哲学とその読書体験のダイナミズムがあると思うからだ。
その機会をここで奪うわけにはいかない。
と、いいたいところだが、あまりにも投げっ放しでは不興を買いそうなので、その一端を垣間みる次の引用に簡単に触れて、本書紹介の最後を締めたいと思う。
「漫画家の赤塚不二夫さんの告別式が、二〇〇八年八月七日、東京都中野区の宝仙寺で営まれ、「肉親以上の存在」と慕っていたタレントのタモリ氏が、すてきな弔辞を読んだ。「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場〔瞬間〕が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは、見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。」(『文藝春秋』二〇一一年一月号)」[本書213頁]
「これでいいのだ」の精神は、「なんの変哲もない日常のなかの一瞬に、永遠の幸福を見出すこと」だと著者はいう。
そして、それは、いかなることなのか?、どういう在り方なのか? というのを本書後半では多面的、横断的にさまざまに提示しているので、その内容を確認されたいという方はぜひに手にとられんことをおすすめしたい。
ちなみに、わたくしごとで恐縮だが、小生は本書著者のファンであり、学生の頃から発刊する著作を追い継いで読ませてもらっている。
著者の思索の軌跡、著作群は当然、連綿とつながっており、本書の前後に発刊された著作もあわせて読むともちろん理解も深まるし、あらたな発見も多いので、余力あるなら連作で読まれることをおすすめしたい。
参考までに以下に市販されている代表的な著作をリストアップしておく。
- 古東哲明『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房、1992年)
- 古東哲明『他界からのまなざし 臨生の思想』(講談社選書メチエ、2005年)
- 古東哲明『瞬間を生きる哲学 ━━〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書、2011年)*本書
- 古東哲明『沈黙を生きる哲学』(光文社/夕日書房、2022年)
どれも著者のテーマである存在論、存在することの不思議や存在神秘に関する論究をベースとしているのだが、哲学の専門書にはない、一般の読者へ向けての語り口も兼ねそなえているので、他の類書に比して読みやすいのではないかと思う。
◾️ 書誌情報
出版社:筑摩書房 (2011/3/16)|発売日:2011/3/16|言語:日本語|単行本:263ページ|ISBN-10:4480015140|ISBN-13:978-4480015143
▼ 目次・所収
プロローグ 瞬間という聖地
第1章 瞬間抹消━━瞬間を忘れて生きるのはなぜなのか
第2章 生きられている瞬間の闇
第3章 水中花━━プルーストの瞬間復元法
第4章 美の時
第5章 永遠の瞬間
エピローグ ルーナの告白