今回は私的付き合いの長い、個人的推しの本、三木清『人生論ノート』(新潮文庫、1978年)の紹介になりますが、レヴューというよりは、恥ずかしながら、思い出話のようになってしまいました。
それでも、まあ、「人生」を考える本なので、個人的な思い入れなしには語れないですし、人生というものを真正面から考えるための言葉と視角とを提供してくれる本であることは間違いありません。
それが皆さまの人生の何らかに寄与することを願って。
◾️ 出版社紹介文
死について、幸福について、懐疑について、偽善について、個性について、など23題──。
ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木清の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。その多方面にわたる文筆活動が、どのような主体から生れたかを、率直な自己表現のなかにうかがわせるものとして、重要な意味をもつ。
◾️ 読みどころ私見
わたくしごとで恐縮だが、本書との奇縁を少々語らせてほしい。
本書との出会いはなんと、大学受験の際の現代国語の出題文、つまりはテスト問題であった。
どこの大学の出題であったか、はたまた、もしかしたら過去問あるいは模試の問題であったのか、そこまではっきりとは憶えていないが、とにかく、いずれかの問題のなかで本書との邂逅があったのだ。
問題を解くことそっちのけで、この文章に読み入ってしまったわけだから、受験本番の出題文ではなかったのかもしれない。
正直、後にも先にもそんなことはなかったし、出典が気になってわざわざ調べ、その後に書店にてこの本を買い求めたというのは、やはり不可思議といえば不可思議なことであろう。
三十余年も前の話だ。
奇縁というほかない。
その後も、大学では研究対象とまではいかないまでも、この本の著者である哲学者・三木清の著作にはたいへんお世話になったし、この新潮社の文庫版は何度か買い替えてもいる。
書店に行くと、ことあるごとにふと思い出して手に取り、旧友に出会ったかのような懐かしさにかられて、家に同じものを持っているのにもかかわらず、ついつい購入してしまうのである。
まあ、つまり、個人的にそういう付き合いの本なのだ。
ところで、その出会い際の出題文というのが、本書に所収された「感傷について」という文章なのだが、なにをもってこの文章に惹かれたのか、いまだ不可思議ではあるものの、それにしても、受験勉強に勤しんでいる身分と状況ならば、「感傷」にひたっている場合じゃないだろうとツッコミを入れたくなってしまう。
それでも、この文章に魅入られてしまったのだからしょうがない。
この文章ではたとえば、出だしにこんなことが書かれている。
「精神が何であるかは身体によって知られる。私は動きながら喜ぶことができる、喜びは私の運動を活潑にしさえするであろう。私は動きながら怒ることができる、怒は私の運動を激烈にしさえするであろう。しかるに感傷の場合、私は立ち停まる、少なくとも静止に近い状態が私に必要であるように思われる。動き始めるや否や、感傷はやむか、もしくは他のものに変わってゆく。故に人を感傷から脱しさせようとするには、まず彼を立たせ、彼に動くことを強要するのである。かくの如きが感傷の心理的性質そのものを示している。日本人は特別に感傷的であるということが正しいとすれば、それは我々の久しい間の生活様式に関係があると考えられないであろうか」
それから「感傷」の様態というものがどのようなものであるか、三木流に開陳していくのだが、いま読み返して想うに、当時、受験生の身空でせわしなく追い立てられているところを、逆に「立ち止まれ」と諭されたようにでも感じたのだろうか。
とにかく、この「感傷」という状態になにかしら惹かれるものがあったのだろう、としかいいようがない。
さらに、三木は立て続けに畳みかける。
「感傷の場合、私は坐って眺めている、起ってそこまで動いてゆくのではない。いな、私はほんとには眺めてさえいないであろう。感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない」
「感傷はすべての情念のいわば表面にある。かようものとしてそれはすべての情念の入口であると共に出口である」
「感傷はただ感傷を喚び起こす、そうでなければただ消えてゆく」
「感傷は制作的でなく鑑賞的である。しかし私は鑑賞によって何を鑑賞するのであろうか。物の中に入らないで私は物を鑑賞し得るであろうか。感傷において私は物を味わっているのではなく自分自身を味わっているのである。いな、正確にいうと、私は自分自身を味わっているのでさえなく、ただ鑑賞そのものを味わっているのである」
「鑑賞はたいていの場合マンネリズムに陥っている」
「あらゆる物が流転するのを見て感傷的になるのは、物を捉えてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るのであろうか」
「感傷には常に何等かの虚栄がある」
それにしても、締めに「感傷=虚栄」と来るのは「?」であった。
だが、その見ているものの奥行きに、若い自分はコロッといかされてしまったのである。
そしてまた一面で、この論述の仕方に魅せられたことも否定できない。
たんたんと、前出の術語をひとつひとつ丁寧に定義してゆきながら、それでいて数学の論理式とは明らかに異なる行間の広がりを示唆するような論述に、当時の若かりし自分は好感が向いたのだろう。
こういうのを若気の至りという。
だが、現在の自分にはこの「感傷」の様態というものが、すんと腑に落ちるのである。
本書の著者が哲学者ということから、あるいは敬遠される方もおられるかもしれないが、向き合って考えているのは"人生"についてである。
いずれにしても、このテーマに正面から対峙しようとするならば、この哲学者がそれに最低限必要なことばと眼差しとを過不足なく提供してくれる内容だと個人的には思っている。
本書の魅力は"人生"の諸相を横断するような、この考えるための「ことば」たちの連なりにある。
最近読み返してみて、年齢的に「死について」「孤独について」「健康について」などが読みどころとなったが、これまでの本書とのつきあいを振り返ってみても、どのような年代においてもなんらかの示唆があったように思う。
『人生論ノート』という表題を冠するだけの強度がある著作であることはいうまでもないだろう。
本書は断章構成で編まれているが、各断章であつかっている用語・術語がもちろんそれぞれに連関しているので、各ことばを拾って、それを追いながら読むのもおもしろい読み方だろう。
たとえば先の「感傷について」の章では「感傷には常に何等かの虚栄がある」の一文、すなわち「感傷=虚栄」でおわっているわけだが、ならばと「虚栄について」で書かれた章に読み進めることで、広がりができるわけだ。
ということで、この稚拙な紹介文の最後に、そこのことばを引いて締めさせてもらおうと思う。
「虚栄は人間的自然における最も普遍的な且つ最も固有な性質である。虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである」
「虚栄によって生きる人間の生活は実体のないものである。言い換えると、人間の生活はフィクショナルなものである。それは芸術的意味においてもそうである。というのは、つまり人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる」
それにしても、本との出逢いというものも、人の出逢いと同様、じつに「フィクショナルなもの」であるということを、自分の例だけにはとどまらないのだろうと想像するだに、どこか心躍る気分がこみあがるものである。
◾️ 書誌情報
出版社:新潮社|発売日:1978/9/1|言語:日本語|文庫:176ページ|ISBN-10:4101019010|ISBN-13:978-4101019017
▼ 目次・所収
死について|幸福について|懐疑について|習慣について|虚栄について|名誉心について|怒について|人間の条件について|孤独について|嫉妬について|成功について|瞑想について|噂について|利己主義について|健康について|秩序について|感傷について|仮説について|偽善について|娯楽について|希望について|旅について|個性について|後述|解説:中島健蔵