粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

酒場追憶・夏 ── 涙笑こもごも

夏といえば花火酒宴。

黒天に咲く絢爛たる百花繚乱に酔うことは、人生の煌めく栄枯盛衰を追憶するのに近い。

夏の夜空に、そんな回り灯籠の影絵のような交互を見てしまうのは自分だけだろうか。

それだけではない。

喧噪の空隙に垣間みる静寂──。

夏というのは、暑い盛りでもいいし、うだるような熱波から解放された夕涼み、あるいは夜の繁華街の活況のさなかでもいい、夏のどのような場面でもいいが、刺すような陽射しや人びとの活気と騒音のなかのちょっとした間、フとした瞬間にあらわれる静けさ、"鎮まり"が、なんともいえずいい。

それこそが夏の風情の粋にあり、その澄明な玻璃のような夏の空気が虚実をないまぜにして、したたかな酔いを慰撫してくれるように思われるものである。

 

と、気恥ずかしい感傷をおしのけて、ところで。

バー通いをしていると年に何回か、"途中に他の客が来ない"というタイミングがある。

営業時間が始まり、最初に数人の客が訪れるが、それ以降に客足が不思議とピタリと止まるという現象である。

いつもなら客が顔を出しそうな時間、あるいはそれなりに混み合いそうな時間になぜか客が来ない。

「まあ、そんな日もありますよ」とマスターが云い、夏のとある日、その日もカウンターには自分を含めて客が3人だけだった。

 

そしてもうひとつ。

そんな日は、どういうわけだが客が"居坐る"傾向にあるようで、その日も終業時間まで3人とも尻尾利(しっぽり)と呑み明かした次第である。

このような時間──。

酒と、タバコと、ジャズと、会話と──。

外野の熱にうかされた頭が鎮静する時間──。

悪くない。

キドった言い方をするのなら、これが"大人の時間"というものだろうか。

世知辛い社会でしょいこまされた重荷を肩からそっと下ろして力を抜く、宿り木にとまる、ゆったりとした時間である。

あるいは繁華街の喧騒のなかにふとできた真空の、心静かな時間とでもいえるもので、バーにはときどき、そんな時間が流れるわけだ。

 

それで。

その日の客は自分と、顔見知りの常連女性、そしてその常連の同僚の女性だった。

他の客がいない手前、マスターを巻き込んで、いきおい4人で話し込むことになったわけだが、もちろん他愛のない世間話がほとんどで、しかしながら、なぜくだらない話ほど飽きることもなく長々と話せるのだろうと思えるほど、閑暢な時間であった。

その日はまあ、なんというか、そんな冗長さが心地よかったのだ。

そんな長尻咄しと談笑とにハナ咲かせているなかで、常連の女性客が唐突に、ぼそっと、次のような台詞を吐いた。

 

「いや〜、最近、泣いてないわ」

「そうねぇ」

「?」

「……」

 

女性客2人はうんうん頷いているのだが、こちらは眼が点である。

どういうことかと尋ねてみると、常連女性いわく、「定期的に思い立って、泣くようにしている」との話だった。

ついでに連れの女性客も「わかるわ〜」と激しく同意している。

おいてけぼりをくったのは男2人だが、さらに踏み込んで聞くに、彼女たちは「泣く時間」をわざわざ設けたうえで、たとえばわざわざ泣けるような感動的な映画などを事前に準備・仕込んでおいて、「今からさあ泣くぞ」と自分に宣言して、《泣く》、ということをおこなっているそうなのである。

「ふ〜ん?」と思ったが、これは女性にはわりかし"あるある"のことのようで、同伴していた女性客のほうも不定期ではあるが、「よし泣くぞ」と思う機会はあって、そのときは自分専用の泣きコンテンツなるものを用意して、《泣く》のだという。

「そんなものかね」と思ったが、彼女たちに言わせれば、心が渇いたとき、心の潤いを取り戻すための必要な儀式? なのだそうだ。

泣くというのは、「思いがけず泣く」「不意に泣く」というのが本来のもののように思うのだが、「意図して泣く」、しかも「定期的に泣く」というのは、個人的にはわりと斬新な発想ではないかとの思いがした。

「マスターはどう思う?」と水を向けてみると、「まあ、年齢的に涙もろくはなってきましたが、わざわざ泣こうと思って泣くというのは、やりませんよね」と言っていた。

まったくの同意見である。

偏見をおそれずにいうのなら、男はそこいらへんに無頓着のような気もするし、ふだんこの社会に生きていて、「泣く」という行為はまったくの慮外のことのように思われる。

自分からわざわざ「涙を流す」というのは、およそ守備範囲外のことなのではないだろうか。

が、これについて彼女たちはなかなかに秀逸な比喩をもちいて説明してくれた。

泣くのは「こころへの水遣り」だという。

謂く、人は皆、鉢植えの花で、水を遣らなければ枯れてしまう。

謂く、泣くことで、きれいに咲きほこるのだと。

「うまくまとめやがったな」と言ってやったが、まあ、そこからは、これまで泣けたことや、泣ける映画・ドラマ・本など、そっちの話に移っていき、興が乗ったのか、その後、スマホを引っ張り出してきて、YouTubeの感動動画合戦になってしまった。

「観て観て。これ泣けるっしょ」とその場で激しく泣きコンテンツをススメられ、他の客がいないのをいいことに、自分とマスターにとっては強制視聴の時間となったわけである。

 

ということで、ひょっとしたら関心ある方もおられるかもしれないので、以下にそのとき観た泣ける動画のリンクを貼っておくが、このとき、動画を観せあって、4人が果たして泣けたのかどうかは後述する。

とりあえずご視聴されたい。

 

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

いかがだっただろうか。

当時は、これ以外にもけっこうな数の動画を観たのだが、ここではその一部を添付させてもらった。

もちろん人それぞれに泣ける泣けないの好みは異なるとは思うが、およそ共通してウケがよかったもののみをここでは載せている。

それにしても、後から振り返って再視聴してみたのだが、泣かせる気満々のベタベタ展開の動画であることはたしかだが、だがしかし、そうであるならばなおさら、長くはない尺でキッチリと泣かせにくる仕事をするあたり、なかなかの出来栄えである。

こういったコンテンツを制作するクリエイターらの辣腕をまざまざと見せつけられる思いがした。

で。

これを観て、結果、4人とも、その場で眼を腫らして、さめざめと泣いたものである(笑)。

 

「……マスター、ティッシュちょうだい」

「おかわり」

「おかわり」

「すいません、わたしが使うので、いま切らしています」

「じゃあ、そのウェスでいいわ」

「え、汚れてますよ」

「あたしもそれでいい」

「おれも」

 

てな具合である。

だいの大人がまなこを赤くさせ、鼻をズルズルとすすっているさまは、客観的に滑稽としかいいようがないぶざまである(笑)。

 

思うに、「泣く」というのは、一種のカタルシスを得ることなのだろう。

泣くことは快感であり、解放感があるのだ。

彼女たちが定期的に泣くと云っていた意味を思い知った気がしたが、こうやって心を晴らすのもわるくない趣向だと思ったし、意図して生活に取り込もうとするのも、心の健康を保つうえで良いことなのかもしれないと勉強になった。

それにしても、だいの大人が涙する姿というのは、傍から眺めると、それだけで逆におもしろい光景である。

泣き笑いは表裏一体なのだ。

実際、動画を観てひとしきり涙を流した後、4人して笑うしかなかった。

そして、つくづく思った。

この世の中、クソ真面目の感情一直線や、反対にヘラヘラとバカ笑いするだけの一辺倒でも、いずれも能がない。

清濁併せ呑み、いろいろな情感を味わい尽くして、感窮まれば、その後に本来の笑顔が花咲くのではないかと、夏の夜長に思えた次第である。