
蔵書を漁っていて脈絡もなく、菊池寛『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』(新潮文庫、1970年)をご紹介。
本書はいわゆる"大衆小説"のなんたるかを体現したような位置づけの作品といえるのかもしれませんが、あるいは批評の界隈で文学性どうこう芸術性うんぬん、あるいはエンタメどうのとゴタクを並べる以前に、読んで真っ当におもしろい、直球の短編小説集といえるでしょう(装丁からいわゆる「時代小説」「歴史小説」を連想する方がおられるかもしれませんが、それとは少々異なります)。
あえて忌憚なく大風呂敷を広げさせてもらうのならば、あまねく小説のお手本たりうるのは本書こそ相応しいのではないかと思う次第であります。
◾️ 出版社紹介文
元禄期の名優坂田藤十郎の偽りの恋を描いた「藤十郎の恋」、耶馬渓にまつわる伝説を素材に、仇討ちをその非人間性のゆえに否定した「恩讐の彼方に」、ほか「忠直卿行状記」「入れ札」「俊寛」など、初期の作品中、歴史物の佳作10編を収める。著者は創作によって封建性の打破に努めたが、博覧多読の収穫である題材の広さと異色あるテーマはその作風の大きな特色をなしている。詳細な注解を付す。
菊池寛(1888-1948):高松市生れ。1916(大正5)年、京大を卒業後、「時事新報」記者を勤めるかたわら、「恩讐の彼方に」等の短編小説を発表して、新進作家としての地位を確立した。さらに面白さと平易さを重視した新聞小説『真珠夫人』で、一躍、流行作家になった。その一方、鋭いジャーナリスト感覚から1923年、「文藝春秋」を創刊、文芸家協会会長等を務め、"文壇の大御所"と呼ばれた。
◾️ 読みどころ私見
出だしから私事で恐縮だが、若い時分から断捨離や金に詰まるなどして蔵書の一部を売り払うということを繰り返してきた。
そして現在、本書を手に取ってみて、このことを踏まえると、あらためて、ちょっと不思議な縁だなと思ったりもするのである。
若気の至りで、日本の近現代文学・散文・小説を系統立てて片っ端から唾つけて乱読していた時期に出逢った本であり、作家である。
が、単純にただそれだけの縁であり、実をいうと菊池寛という作家にとくに思い入れもないのだ。
にもかかわらず、そんな蔵書履歴のなかで手放すか手許においておくかの取捨選択の幾多の機会をくぐり抜け、なんとなく、「これはとっておこう」と思って書棚には残してある本であり、作家なのである。
奇縁としかいいようがあるまい。
これまでの折々の選別を生き残って手許にあるわけで、なにかそれなりの理由があるのだろうと、今回、あらためて読み返してみたのだが、なるほどと得心したことがあった。それをちょっと、ここに記しておこうと思う。
まずもって今回読み返した、読後の率直な感想。
── 巧い。
この一言に尽きる。
大仰にいえば、あらゆる小説作品と呼ばれるもののお手本に足りうる作品であり、作家である、と言い切ってしまいたい。
本書は、心理描写の的確さ、物語の展開ならびに構成の妙、無駄も冗長もいっさいなく書き切る力量、どれをとってもハイスペックな作品群であるといえる。
菊池寛は戯曲を書くのも得意にしていたそうだから、それもあるのだろう。
とにもかくにも最上級のよい意味で、たとえば小説というものを書かんと志すのならば、"教科書的"となるような精緻さを感じさせる作品群であると思う。
ことわっておくが、教科書的というと、どこかつまらぬ、退屈なものを想像される向きもあろうかと思うが、本書においてはそんなことはまったくない。
まちがいなく、おもしろい短編群であると請け負える出来栄えである。
ざっとだが、新潮文庫版のこの短編集の各話の"巧い"と感じた寸評を以下にかいつまんで述べておこう。
まず「恩を返す話」。島原の乱の鎮圧にあたった肥後熊本の細川藩中のとある家臣の「恩」をめぐる心中の葛藤を描いた作品なのだが、設定が絶妙で、なんとなく虫の好かない同輩にいくさの最中に助けられてしまったがために、その"恩"(本人に言わせれば心の瑕疵のようなものだろう)をいかに返すかをめぐって煩悶するさまを描き切っているところが秀逸である。小編だが読みごたえがあって、武家社会・封建社会特有の「報恩」に囚われになる自意識過剰な生きざまをどこか揶揄するような色調で描かれており、ネタバレになるのでここでは控えるが、最後の一文の落とし方が巧い。
「忠直卿行状記」。いわゆる封建社会の権力者、王やトップ、まつり上げられた者の周囲との隔絶と孤独とを描き、その乱心と残虐、心の爛れ具合とを刻々と綴った作品なのだが、これも心理描写が精緻で唸らされるところがあった。末尾の忠直の救われようをサラッと後書きするのも巧いなぁと嘆息させられる。
「恩讐の彼方に」。いわずと知れた名作短編、菊池寛の代表作である。今回あらためて読んでみて感じたのは、後半の仏心一途に洞窟を掘り穿ち進める了海の姿に、親の仇を追い求める実之助を重ね合わせて描いた構成の巧みさを感じさせる筆致はもとより、それ以上に、前半の悪事に手を染めて身を窶していく市九郎が俗世から出奔するまでを描いたパートも、物語の導入という役割を超えた筆圧を感じさせられて驚いた次第である。とくに市九郎が雲水の心境に至る経緯を丹念に追いかける筆運びは圧巻で無駄がない。あらためて、菊池寛のスマートな文体に恐れ入ったものである。
「藤十郎の恋」。本書表題にもあるとおり、こちらも菊池寛を人気作家に押し上げた作品だそうである。元禄期の名優(歌舞伎・狂言役者)である藤十郎(坂田藤十郎)を取り上げたもので、題材としては芸の行き詰まりとそれを超克せんとする芸事が孕む狂気を描いた作品である。この話、いわゆる不倫もので、わるい言い方をすれば人妻の恋情をもてあそぶような仕打ちを藤十郎がしでかすのだが、巧いと感じ入らせるのは、芸の狂気に駆り立てられる藤十郎に世間的な不倫に対する感性をしっかりと残させて、彼を苦しませるのである。自身を苛むこの苦しみによって藤十郎の芸がいっそう冴えわたり世間で売れはするものの、そこに忸怩たる思いを忍ばせて残す。この微量な毒でもって物語の幕引きするところに、この作家の匠を感じさせるものがある。
「ある恋の話」。今回本書を読み返してみて、あらためて面白いと得心したのが本作だ。設定として、作者の妻の祖母の若かりし頃の恋の回想を聞き書きしたという体裁をとっているのだが、それが本書収録の他の短編とは異色で、だけに、いっそうその異彩さを放っているように感じた次第である。役者がらみの話としては、「藤十郎」より面白かった。テーマ的には、"俗"な言い方をすれば、よくある「男女の恋心のすれ違い」をあつかってはいるのだが、それだけにとどまらない、そのすれ違いにさまざまな意味合いを含み込めた"絶妙なリアリティ"がある作品との印象を受けた。今回の読書で個人的にもっとも収穫のあった小編である。
「極楽」。いわゆる寓話・訓話に類する話である。天寿をまっとうし、念願であった極楽世界にのぼることのできた老夫婦が、蓮の台座に腰かけて退屈がまさって地獄のことばかり気にかかり、地獄の話にばかりに夢中になるという話である。含みあるテーマだが、そこをサクッとまとめてみせるところが巧い。
「形」。数頁の小話で、少々穿った見方をすれば、「外見よりも内面」というのを皮肉っており、「内実よりも外面がまさる」ということをオチにしているのだが、まあ、「人は見た目の印象で9割決まる」なんていわれる昨今の世相においては、それを地でいく寓話・訓話のたぐいである。
「蘭学事始」。杉田玄白と『ターヘルアナトミア』にまつわる短編で、医学者・科学者の信念と学問的な態度の清廉さをあつかった作品である。学術の方向性をめぐって杉田と、同じく蘭学医の前野良沢が、一見すると蘭学を極めんとする情熱で軌を一にしているように見えて、結局のところは双方の異なる存念で向きをたがえるという葛藤を描いているのだが、本書に収録された「恩を返す話」と似た作品で、菊池寛はこのような些細な心理描写を描くのがじつに巧いと感じ入ってしまう。
「入れ札」。国定忠治とその弟分一行が赤城山を追われて信州路に落ちのびていく一場面を切り取った小品である。これも、題にある「入れ札」という小道具を使ったところがじつに巧妙である。いわゆる"無記名投票"の背景にある人間関係の駆け引きと、その入れ札に忍ばせる心理的葛藤とを小編のなかにぎゅっと凝縮して重ね描いており、秀逸な出来栄えの作品といえよう。
「俊寬」。「恩讐の彼方に」に並ぶ、白眉の作品である。ベタな言い方をすれば、人間の幸せの在り処はいずこに、あるいは人はいかに生きるべきかという普遍的なテーマを主旨に据えているように思うが、これも本編前半に描かれる煩悩への執着を仔細にわたって語ってみせることと、すべてを失ったところから生への渇望に転じていくさまを描き切る筆致の力量があるからこそ成立するところであろう。菊池寛のその巧みさには、やはり圧倒されるのである。
ちなみに、本書を通した解説を書いた吉川英治は次のように云っている(発行された1970年当時)。
「これらの作品のテーマは、現代においてはあまり珍しくはないかも知れない。しかし、それは菊池氏以後の多くの歴史物の作家が、その影響を受けて、こうしたテーマが一般的に普及したからである。三十年前においては、これらのテーマはすべて菊池氏独得の異色ある思い付きであったのである」
「およそ大正から昭和の初めに当たって、菊池氏の作品ほど、大衆の思想的、文化的啓蒙に貢献した作品は少ないと、いってもよい」
現在においても、この説はいまだ有効であり、上記の短編群はなんらその精彩を欠いてはいないように思う。
昨今のメディア上に溢れる国産のドラマやシナリオのたぐいをもってしても、この作家がおよそ描いたテンプレートを通奏低音の如く踏襲しているようでもあり、また主調に響く和音のようにも聞こえるのである。
◾️ 書誌情報
出版社:新潮社|発売日:1970/3/27|版:改|言語:日本語|本の長さ:384ページ|ISBN-10:410102801X|ISBN-13:978-4101028019
▼ 目次・所収
恩を返す話|忠直卿行状記|恩讐の彼方に|藤十郎の恋|ある恋の話|極楽|形|蘭学事始|入れ札|俊寬|注解 片山宏行|解説 吉川英治