先回に引き続き、今回も内田百閒の随筆、『御馳走帖』(中公文庫、1979年)をご紹介。
食をテーマにはしていますが、そこは百閒先生なので、ありがちな美味いもの自選集のごとき内容とは一味違った趣きで書かれている、こちらも名随筆といえるでしょう。
推しの小説家なので色色説明したいところをぐっと抑えて、またぞろ内容的に御託は沢山、問答無用に読んでもらいたい、そんな本なので、ふたたび皆さま方のどこぞの琴線に触れんことを願ってやみません。
◾️ 出版社紹介文
朝はミルクにビスケット、昼はもり蕎麦、夜は山海の珍味に舌鼓をうつ。ご存じ食いしん坊百間先生が、幼年時代の思い出から戦中の窮乏生活、また知友と共にした食膳の楽しみに至るまで、食味の数々を愉快に綴った名随筆。
◾️ 読みどころ私見
以前このブログでも少々触れたのだが、食にまつわる記憶というのは、そのまま人生の幸福とつながるのではないかとの思いをいっそう強くするようになった今日この頃である。
というのも、歳をとると周囲の世事に疎くなると同時に、興味関心が次第に生の根本的なところ、すなわち「食」に集中するようになるとも思われるからである。
たとえば衣食住。
衣も住も、機能面では気になりはするところもあっても、若いころ気にしたような見てくれなどにはもはや頓着しなくなる。ボロでもアバラ家でも雨露さえしのげればあとはべつにどうということもない。
しかし食だけは、その味わいの多彩なるところに、それこそ食指が伸びること尽きないように思うのだ。
あるいは人間の三大欲求。
性欲は枯れ、睡眠欲は脳と身体にあけわたすようになるが、食欲だけは意図して色をつけようとする。少量でいい、できればそれを美味しく召し上がりたい。こんな思いに駆られる
とどのつまりは、食に関する興味関心がふくらむのである。
なぜかしら。
このことはしかし、自分だけではなく、周囲の同年代の同輩と話してもみな、「最近は食べることしか興味ない」と口を揃えて云うのである。
不思議に思いはするが、最初に戻って、やはり食べることそのものが寸暇の幸福に直結しているからだろうと結論づけたくなる。
さて、今回紹介するのは、そんな食にまつわる本で、内田百閒『御馳走帖』(中公文庫、1979年)である。
食をテーマにしたエッセーのたぐいはごまんと出ているし、古今の小説家には食通もわりと多く、食レポとして味わい深い名文もあまた散見されるが、本書はそことはちょっと位相をズラしたところに位置する随想である。
言わずもがな、なにせ百閒先生である。
百閒節ともいえる少々の癖はあるものの、だからというべきか、ありがちな美味いもの自選集のごとき内容とは一味違った趣きで書かれている。
というのも、百閒先生ご自身が、自分は食通ではなく、なんなら食べること自体も面倒くさく思うことが多々あると言明しているからだ。
そこがいいのだが、まずはご賞味がてら、ちと引いてみるとしよう。こんなふうに云う。
「食事は一日一回晩飯しか食はない。尤もさう云ふのは、お膳に坐つて箸を取る事が夕方だけと云ふのであって、朝から一日ぢゆう腹をほしてゐるわけではない。朝飯代りには牛乳一合と英字ビスケット一握り、林檎一顆づつ食べる。午にはもり又はかけを一つ宛食べる。温かい間はもり、寒い間はかけと云ふ事にしてゐる。もう四五年来この仕来りを変へない。その間に私の食つた蕎麦を一本づつ繋ぎ合はしたら、どの位の長さになるかと云ふ事を鉛筆を持つて計算した友人があつた。計算の答へが出ない内に話が外へそれてしまつたが、私は自分で地球を幾巻きかする位食つてゐる様な気がする」(「鬼苑日記」)
「私がいつも家で蕎麦ばかり食つたのは、蕎麦が好きな為ではなく、蕎麦で一時のおなかを押さへて我慢をしたに過ぎない。若し自分から足を立てて食べに出掛けると云ふ事になれば、蕎麦屋で盛りやかけを食ふよりは、西洋料理とか鰻の蒲焼などの方が好きである。ただ昼間の内からさう云ふ物を食べ散らす様なお行儀のわるい事をすると、自分の身体にいけないから蕎麦で養生してゐたのである。食意地が張つてゐて自制心の弱い私の様な者は、成る可くうまさうなにほひのする場所へ近づかないに限る。色色考へをめぐらして見たが、いい分別がないので面倒になつて、結局なんにも食べないのが一番簡単であると思ひ出した」(「腰弁の弁」)
「二十年来の持病である私の変な動悸、正確に云ふと発作性心臓収縮異常疾速症がこの頃は殆ど起こらない。それで小林博士から今の様な情態であれば、食べ物などに就いても、別に八釜しい制限は必要ではあるまい。ただ体重がまた少しふえかけて来た様であるから、その方の用心をする様に、と云ひ渡された。それにはどうしたら宜しいかと伺ふと、減食が第一だと云はれたので、私がそれは御無理でせうと云った。この何年来、朝飯も昼飯も廃して、お膳に向かふのは夕方一回だけである。(中略)すると小林博士が考へて、それでは、おからを食へと云った。おからで満腹感を与へて、他の御馳走が余り這入らない様にしろと云ふのである。ところが私はおからが好きなので、その命令はちつとも苦痛でない。早速その翌日から始めて、もう十日余りも毎晩欠かした事がない。私はこちらから進んで人の指図を受ける立場に起こった以上、その人の云ひつけは必ず守らなければ気がすまないから、今後小林博士の方で何か云はれない限り、一年でも二年でもおからを食ひ続けるつもりである。初めの一日二日は急におからを沢山食つたので腹の中におからが這入つてゐる事を自覚する様な気持がしたが、この頃ではもう馴れてしまつて、おからはおからとして十分に食ひ、その上にふだんの御馳走は以前と変はりなく詰め込む様な事になつた。結局おからだけが余計なものになるのではないかと思はれるが、当分の間はお医者様に黙つてゐようと思ふ。何故と云ふに、おからもまだ食べ飽きないし、何でもお膳の上に一色でも余計にある方が有り難い。それで又以前の様にふとつて来ても、中身にはおからが相当這入ってゐる筈だから、その時減食の一法として、おからを止めたら、忽ち効果が現はれるに違ひないと考へてゐる」(「おから」)
と、こんな調子の百間先生なので、食に関するこだわりはそれほど強いほうではないし、食にまつわる蘊蓄のようなものを披露するわけでもないのだが、それにしても、そのごく普通の日常茶飯事のつれづれなる所感は、どこか惹きつけられるような"重箱の隅"なのである。
たとえばこんな感じである。
「鮫の切り身は公設市場で買ふと一切れ七銭だが、うちの魚屋は八銭でおまけにこんなに身が薄いと家の者が云つた。鮫の様な下魚がそんなに高いのは不思議だと思つたが、餉台の上に出てゐるのを見たら、一寸食つて見たくなつたので、箸の先でつつ突いてみると丸つきり食べられない味ではないけれど、矢つ張りうまいとは云はれない。東京の者が鮫などを平気で食膳に上らせるのは、今の様に運輸の便が開けない昔は、よくよく食べ物に不自由した為であらうと思はれる。昔から珍重してゐる初鰹にしても、そんなに取り立てて云ふ程の物でもないのだが、魚島時分の鰆の刺身など江戸ッ子は食つた事がないし、鰤さへもやつと近年になつて、一般の食前に上る様になつたけれど、大体場違ひの遠海物ばかりで、刺身に出来る様な鰤は滅多に町の魚屋の手には渡らない様である。江戸ッ子は何かにつけて利いた様な事は云つても、うまい魚の味も知らないし、又江戸の町に来た魚の種類も極く限られてゐたので、その中で季節になれば、どうにか食べられる鰹を天下の珍味の様に云ひ立てたのであらう。しかし鰹はまだしもとして、鮫を切り身で食ふなどは、餓民の沙汰だと考へてゐたが、しかし箸をつけて見れば食べられない事もない。それは私自身大いに東京人の食べ物をけなす様な事を云つてゐるけれども、今日まで生を享けた五十年のうち、魚の豊かな郷里で過ごしたのは初めの二十年だけで、その後はずつと東京で暮らしてゐるのだから、今では口も舌も模造の江戸ッ子になり切つてゐる筈である。味覚の記憶と云う事は曖昧であつて、証明は立たないものの様に教はつてゐるが、どうもそれが本当らしく思はれる。昔に食つた魚の味などを持ち出すのは負け惜しみか嘘かである。結局、鮫の切り身でもだまつて食ふ覚悟をきめた方がいいだらうと観念した」(「蒲鉾」)
「私がお菓子を食ふのを見て、あなたは酒飲みの癖に甘い物を食べるのですかと怪しむ客がある。中にはけしからん事の様に考へる人もゐるらしい。酒飲みは酒飲み、甘党は甘党と片づけなければ気がすまぬのであらう。酒飲みの中にも、本当は食べたくないわけではないが、自分はいつぱしの酒飲みであると云う誇りがあつて、菓子を近づけないのもゐさうである。酒を飲むから菓子の方は遠慮すると云ふのであれば一つのお行儀に違ひないが、菓子は下戸の食する物であるときめるのは窮屈である。菓子だけでなく凡そ下戸の好む物は何でも酒飲みが口にす可きでないと考へる君子もゐる。昔私の学生だつた紳士の前で、私が奈良漬をかじつたところが、おやおや先生は奈良漬を食ふ。奈良漬は下戸の食べる物ではありませんかと云つて私を窘めた。さう云ふ位だからその男は決して奈良漬を食はなかつたが内心ほしくても我慢してゐるのではないかと思はれる。尤もさう云ふ意地は人前の体裁だけではなく、自分一人になつてもきつと通すに違ひないから中中窮屈であらう。蕎麦は坐つて食ふのでなければいやだ、腰掛けで食う位なら食はないと頑張る友人もある。蕎麦は坐つて食ふよりも、蕎麦屋の店の上り口に片膝上げて半分腰を掛けた、横坐りの方が食べいいと云つてもその男は聞かない。今の様に蕎麦屋の店が殆んど椅子とテーブルになつてしまつては、その男などはもう蕎麦を食ふ事が出来ないだらうと思ふ。出前の蕎麦を坐つて食ふ位なら洋式に腰を掛けた方がよからうと思ふけれど、意地になつてゐるからきつと聴きやしない」(「窮屈」)
「駿河台下でアイスクリイムを飲んだ。或は食べた。どつちの言ひ方が普通なのか、いまだによく解らない。口に入れる迄は液体でないから、飲んだと云ふのは可笑しいと云ふ理屈は立たない様である。獨逸語ではソツプを食ふと云ふ。差し当たり飲んだ事にしておく。どう云ふわけだか、私は何かと云ふとアイスクリイムを飲む。格別好きだと思つた覚えはない。況んや味の通ではない。何でもいいので、ただアイスクリイムが飲みたくなる。汽車に乗つても、後から考へてみると、退屈したり腹がへつたりした時、アイスクリイムばかり飲んでゐる。その時駿河台下では、私は初めから二つ分誂へた。孟浪君は自分はそんなにアイスクリイムが食べられないと云つた。彼は確かに食べると云ふ言ひ方をした。さうして一つしか誂へなかつた」(「めそ」)
一見すると捻くれているように聞かせて、吟味するとしごく真っ当ともとれる折々の随想はしかし、基底にはやはり百閒流の世を斜めからみる"可笑しみ"があるのであって、別の書見紹介でも云ったが、食にまつわる本作にしても、その「笑いの壷」ぶりは健在である。
これも本書の魅力として、少々、引用しておきたい。
「志保屋の真前の家の裏の空地に、小さな納屋の様な一棟があつて、その中に親子三人の家族が住んでゐた。今考へて見ると、三畳敷の部屋が一つだけあつた様である。そこの子と、暫らくの間私は仲よしの友達であつた。いつの間にか、一家族どこかへ行つてしまつたので、今ではその友達の面影も思ひ出せない。ある日の夕方、その子を誘ひに行くと、御飯を食つてゐるので、外で待つてゐた。辺りに何とも云はれない、うまさうなにほひがした。「かかん、これん、一番うまいなう」とその子が云つた。何だらうと思つて、外からお膳の上を除いて見ると、油揚の焼いたのを食つてゐた。それなり家へ馳け戻つて、私も油揚を焼いて貰つて晩飯を食べた。じゆん、じゆん、じゆんと焼けて、まだ煙の出てゐるのをお皿に移して、すぐに醬油をかけると、ばりばりと跳ねる。その味を、名前も顔も忘れた友達に教はつて、今でも私の御馳走の一つである。数年前、衣食に窮して、早稲田の奥の砂利場に身をひそめてゐる当時、友人が訪ねてくれたけれども何を買ふ事も出来ないから、油揚を焼いて供した。友人は「うまい、うまい。こんなうまい物はない」と云つて、よろこんで食つた。それから、少し身辺がらくになつて、砂利場を出た後も、その友人は度度訪ねて来た。私は油揚を焼いて、それを肴に酒盃を交はしたりした。その友人が、外の私の友達に、「砂利場の大将は、あの時分は、何を御馳走しろと云つても駄目だから、揚げがうまい、うまいと云つておいたら、いつまでたつても、人の顔さへ見れば、油揚を焼くので弱つちまふ」と云つたさうである」(「油揚」)
「もと横須賀の海軍機関学校の教官をしてゐたので、そこの教官とは馴染みがある。戦時の機構改正で機関学校と云ふものがなくなつた後まで、もとの文官教官が時時集まつて懇親する白浜会と云ふ会があつて、私は大概欠かさずに出席した。以前は築地辺りの料理屋で開いたが、段段に戦局が深刻になつて来て、飲む物も食べる物もなくなつてからは、ずつと飯倉の水交社でばかり開いた。水交社へ行けば一通りの御馳走もお酒もある。周の粟でも盗泉の水でも凡そお酒のにほひのする物に見境はなかった。外は燈火管制で真暗な晩に、遮蔽した広間の明かるい電気の下で西洋料理を食べた。クリイムソツプの次に小魚のフライが出た。無暗に小骨が多くて、うまく取り分けられない。好い加減で口に入れたら、小骨がぢやりぢやり口の中ぢゆうに散らかつて、咽喉へ行つたら大変である。舌の先でだましだまし、あつちへ寄せたり、こつちへ集めたりしてゐるところへ、ボイが新らしい銚子を何本も持つて来た。「さあ参りました。熱い内に一つ」と隣りの席の昔の同僚が云つた。今、口の中へ水けを入れると、折角始末した小骨がまた散らかつてしまふ。しかし口中の骨の為に口を利く事も出来ないから、兎に角一杯受けた。その時分は私がほしくてほしくて堪らないお酒が飲めない為に餓鬼の様になつてゐる事を同席の諸君がみんな知つてゐたから、気の毒がつて、かう云ふ機会に私にお酒を飲ましてくれようとする。私などより年の若い二三人の教官は特に親切であつて、いつでも自分の杯を忘れた様に私にお酌をしてくれる。私が今受けた杯を飲まずにそこへ置いたのを見て、筋向ひの席にゐた若い教官が少し腰を浮かし、及び腰になつて銚子を突き出した。「さあどうぞ、兎に角おあけ下さい」と催促する。私は困つて、しかし観念して、杯をあけた。お酒と一緒に嚥み込んだ小骨のかけらが咽喉の入り口に引つ掛かつてゐる」(「酌」)
やっぱり百閒先生の随筆には、思わず笑ってしまうピンスポットが随所に散りばめられているのである。
と云いつつ、もちろんそれだけではなく、本書は『御馳走帖』と題されているからして、一応、食レポ的なものも僅かながら書かれてはいるが、なかでも引きあいに出したいのは、百閒先生の大好物をしたためたメモ書きである(「餓鬼道肴蔬目録」)。
ここに列挙されている献立をただ眺めているだけで、ゴクリと喉を鳴らしたくなる。
「さはら刺身生姜醤油、たひ刺身、かぢき刺身、まぐろ霜降りとろノぶつ切り、ふな刺身芥子味噌、べらたノ芥子味噌、こちノ洗ひ、こひノ洗ひ、あはび水貝、小鯛焼物、塩ぶり、まながつを味噌漬、あぢ一塩、小はぜ佃煮、くさや、さらしくぢら、いひだこ、べか、白魚ゆがし、蟹ノ卵ノ酢の物、いかノちち、いなノうす、寒雀だんご、鴨だんご、オクスタン塩漬、牛肉網焼、ポークカツレツ、ベーコン、バン小鴨等ノ洋風料理、にがうるか、このわた、カビヤ、ちさ酢味噌、孫芋柚子、くわゐ、竹の子ノバタイタメ、松茸、うど、防風、馬鈴薯ノマツシユノコロツケ、ふきノ薹、土筆、すぎな、ふこノ芽ノいり葉、油揚げノ焼キタテ、揚げ玉入りノ味噌汁、青紫蘇ノキヤベツ巻ノ糠味噌漬、西瓜ノ子ノ奈良漬、西条柿、水蜜桃、二十世紀梨、大崎葡萄 註 備前児島ノ大崎ノ産、ゆすら、なつめ、橄欖ノ実、胡桃、椎ノ実、南京豆、揚げ餅、三門ノよもぎ団子 註 みかどハ岡山市ノ西郊ニアリ、かのこ餅、鶴屋ノ羊羹、大手饅頭、広栄堂ノ串刺吉備団子 註 広栄堂ハ吉備団子ノ本舗ナリ、日米ノヌガー、パイノ皮、シュークリーム、上方風ミルクセーキ、やぶ蕎麦ノもり、すうどん 註 ナンニモ具ノ這入ツテヰナイ上方風ノ饂飩ナリ、雀鮨 註 当歳ノ小鯛ノ鮨ナリ、山北駅ノ鮎ノ押鮨、富山ノますノ早鮨、岡山ノお祭鮨魚島鮨、こちめし、汽車弁当、駅売リノ鯛めし、押麦デナイ本当ノ麦飯(中略)にんじん葉ノおひたし、りんご、ペリングソースヲカケタかつぶし、かまぼこノ板ヲ掻イテ取ツタ身ノ生姜醤油、白雪コウ、花胡瓜」
いかがであろう。
どこにでもありそうな献立であり、地味といえば地味、粗食といえば粗食、もしくは珍味といえば珍味といえそうなものもあるが、派手なものはなく、質実剛健ならぬ"質実垂涎"とでもいえそうな目録である。
これらの品目からそこはかとなく「にほひ立つ」ように、本書では他にも味のあるもろもろの雑記文がわれわれを楽しませてくれる。
これらの芳ばしい香りに嗅覚がわずかでもほだされるのならば、ぜひにご賞味されることをおすすめしたい。
◾️ 書誌情報
出版社:中央公論新社|発売日:1996/9/18|言語:日本語|本の長さ:403ページ|ISBN-10:4122026938|ISBN-13:978-4122026933
▼ 目次・所収
序に代へて|薬喰|食而|菊世界|解夏宵行|饗応|林檎|沢庵|雷魚|百鬼園日暦|謝肉祭|酒光漫筆|三鞭酒|芥子飯|河豚|養生訓|白魚漫記|検校の宴|蒲鉾|おから|シユークリーム|鬼苑日記|腰弁の弁|宿酲|廊下|馬食会|窮屈|牛乳|チース|下宿屋の正月|玄冬観桜の宴|船の御馳走|バナナの菓子|カステラ|紅茶|不心得|痩せ薬|茶柱|缶詰|喰意地|人垣|油揚|大手饅頭|可否茶館|麦酒|吸ひ殻|餓鬼道肴蔬目録|こち飯|お祭鮨 魚島鮨|猪の足頸|食用蛙|雅会|小難|がんもどき|酌|鼻赤|列車食堂|めそ|一本七勺|御慶|お膳の我儘|す|我が酒歴|焼豆腐とマアガリン|ひがみ|未練|実益アリ|おからでシヤムパン|聯想纖維|煙歴七十年|牛カツ豚カツ豆腐|鹿ノミナラズ|車窓の稲光り|解説・平山三郎