
春といえば花見酒宴。
こういう連想はまこと気分がよく、日本のこういった風流は未来にぜひとも残してほしいと思うところである。
それとまた、春ということばから個人的に連想することがあって、 それはいつだかの春、行きつけの呑み屋の常連のあいだで流行っていたことなのだが、この機会にそれをちとここに記して残しておきたいと思う。
といっても、その店でのある年の春、一過性で終わってしまったことなのだが、個人的にはその後もちょくちょく思い出しては楽しんでいる"ことば遊び"のことで、これがほんとうにおもしろくて、強烈な印象を残すものだったのだ。
その季節、なにが流行ったのかというと、それは「自由律俳句」である。
きっかけは客の一人がたまたま持っていた一冊の文庫本だった。
呑み屋に出向く行きがけのブックオフでなにげなしに購入した古本だったそうで、カウンターで一人、冷やをやりながらパラパラとページをめくっていた。
そして隣の客が「なにを読んでいるのか」と喰い付いたことで、その日、店のなかがちょっとした句会の様相を呈したわけである。
肝心のその本とは、せきしろ・又吉直樹直樹『まさかジープで来るとは』(幻冬舎文庫、2014年)という本だった。
ちなみにこのときの隣客とは小生のことで、結局、この本をいたく気に入り、その後同書を買い求めたのはもとより、またその前著である、せきしろ・又吉直樹直樹『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬舎文庫、2013年)も併せて購入した。
どちらもとてもおもしろかった。
二冊とも発行年がおよそ十年以上前で、その歳月はまぁ"古い"ということになってしまうのだろうか。
が、そこいらへんは是非もあらずで、またその十数年前の当時にブームになったのかもあずかり知れぬことなのだが、しかしながら内容的には、存分に贔屓目で言わせてもらって、この2026年にあっても"新しい"ものを含んでいるように個人的には思うのだ。
さて。
まずはそもそも、自由律俳句とはどういうものなのか、ご存知でない方もおられるだろうから簡単に説明しておくと、通常の俳句が五七五という定型があるのに対して、自由律はそれに縛られず、また季語や季題にもとらわれず、感情の自由な律動を表現することに重きをおいて詠むところに、この表現形式のポイントがある。
いま「形式」といったが、まあ、そこは"フリースタイル"であるということで、ここではお茶を濁させてもらおう。
この自由律の俳人で有名なのが、種田山頭火や尾崎放哉らで、ここでは御託を並べず、まずはてっとり早く、この二人の俳人のそれぞれの句をいくつか引用して直接に味わってもらうのがいいだろう。
自由律俳句がどういうものかわかってもらえるだろうし、これらの俳人がともに孤独と放浪・流転を身の上とした人たちなので、その雰囲気が直截的に伝わってくることと思う。
どうしようもない私が歩いている(種田山頭火)
鴉啼いてわたしも一人(種田山頭火)
まつすぐな道でさみしい(種田山頭火)
分け入つても分け入つても青い山(種田山頭火)
おちついて死ねそうな草萌ゆる(種田山頭火)
咳をしても一人(尾崎放哉)
こんなよい月を一人で見て寝る(尾崎放哉)
一人の道が暮れて来た(尾崎放哉)
すばらしい乳房だ蚊が居る(尾崎放哉)
爪切ったゆびが十本ある(尾崎放哉)
ところで、自由律とはいえ俳句であるから、他の形式と比べると奔放であるとはいえ、そのことばに風景なり心情、情緒なりを入れ込むところはもとより当然である。
剥き出しのことば、ありのままのことばを使って描き出そうとするのは、自然やこの世界の美しさであり、かつそれに触れる詠み手の情景といえる。
そして、そうやって詠まれたものは、こういってはなんだが、"真面目”なものである。
で。
本筋はここからである。
繰り返し強調しておくと、俳句とはそもそもが"真面目”なもののわけだが、あえてそこに"不真面目さ"を入れ込む、「なんとなく、おもしろい」「なんとなく、おかしい」「なんとなく、笑える」というエッセンスを加味すると、いったいどうなるのだろうか。
俳句が日常に潜むなんらかの心洗われる瞬間を切り取るものであるならば、それを「笑い」という視角で切り取ってみてもよいのではないかと発想してみる。
そして、そういった遊びごころあるスタンスを俳句に持ち込んだのが、前掲書二冊が果たした仕事であったと大袈裟に言っておこう。
これは──、新しいと思う。
個人的に目から鱗であった。
もっとも、たとえば定型律のほうには川柳というものがあって、現代ではサラリーマン川柳など、もはやエンタメ化して流行っていて、この自由律はそれに類似もしているし、またコマーシャリズムとコピーライティングの隆盛で、その影響も相応多分に受けていることはいうまでもないだろう。
世相としてそれは当然あるにしても、それでも前掲書が自由律句のもつ余韻部分を「笑い」の方向へ引っ張っていった功績は、ここで強調しておきたいのだ。
わけても文句なくおもしろいので、さっそく以下に前掲書二冊からランダムにそれぞれピックアップさせてもらった引用をご賞味いただきたい。
考えていた専門学校と違うという表情(せきしろ)
電器店のビデオカメラに写る思った以上に老けている(せきしろ)
降り損ねたことを悟られぬよう車窓見る(せきしろ)
ラモーンズが何かわからず着ているようだ(せきしろ)
客のいない理髪店店主がこっちを見ている(せきしろ)
カキフライが無いなら来なかった(又吉直樹)
湯飲み茶碗が熱いが手を離すわけにはいかない(せきしろ)
ハワイのTシャツを着た老人が震えている(せきしろ)
吊革を持たず微動だにもしない(又吉直樹)
間を溜めて言う程のことか(又吉直樹)
穴子のでかさが売りらしい(せきしろ)
転んでも泣かなかった子供と目が合う(せきしろ)
大盛りにしたうどんに飽きる(せきしろ)
借りた鉛筆が薄い(せきしろ)
捨てないが着ることも無い(又吉直樹)
初めて発音するデザートを頼む(又吉直樹)
よく焼けと教わった椎茸をもう薦められている(又吉直樹)
楽しんでますかとステージから何度も(せきしろ)
初対面の気がしないと言われても困る(又吉直樹)
空調を褒めるくらいしか無い(又吉直樹)
繰り返された注文がいきなり違う(せきしろ)
終わりまで聞くしかない(せきしろ)
走らなくても間に合ったんじゃないか(せきしろ)
自分が注文した料理が余っている(又吉直樹)
暗い人だが踊りのレパートリーが豊富(又吉直樹)
帰りたいのにギターを弾き始めた(又吉直樹)
まさかジープで来るとは(せきしろ)
間違えて押した階で降りる(又吉直樹)
自分のテーブルだけグラグラする(せきしろ)
これはセール品ではなかった(又吉直樹)
お互い何をしている人か知らない(せきしろ)
不安になるほど鰻が遅い(又吉直樹)
以上の選句については、呑み屋でウケが良かったものと個人的に面白く感じたものを挙げさせてもらった。前掲書2冊にはもちろんこれらの句以外も掲載されているので、ご興味ある方は参照されたい。
また、それぞれの句に野暮な解説や注釈を入れることはしないが、これらの句がもつ"なんとなく笑える"絶妙な手ざわりを感じていただければと思う。
正直、小生の行きつけの呑み屋ではバカウケしていたし、余韻、というか、句が想起させるシチュエーションを深掘りすると笑いの色もいっそう濃く感じること請け合いである。
また、それぞれの句に裏腹にある"なんともいえない悲哀"もあわせて感じ取ると、よりいっそう可笑しみが惹起されるというか、「かなしい=いとおかし」の構図が透けて見えることにも注目されたい。
世の中、哀しくて笑えることは往々にしてあるものだ。
で。
これに触発されて、わが行きつけの呑み屋常連も、ほろ酔いで即興に詠い始めたわけである。
以下は、その場でメモ書きした数句だが、当日はなんだかんだいって断然盛り上がって、収拾がつかなくなるくらい興がのり、勢いにまかせた名句が次々に飛び出していたのだが、書き留められなかったものもかなりあったことが悔やまれる(なにせ呑みながらだから)。
ちなみに、すべての句を「詠み人知らず」にさせてもらったのは、持ち帰ってここにまとめる際に詠み手との同定が不明瞭になってしまったためだ。いかんせん、当時の現場が混迷していたがゆえにである。
関係各者と読者の方々にはなにとぞご容赦いただき、あくまでサンプルとして、前掲書におかれては読者からの反応とフィードバックということで、ご覧いただければと思う。
近所のドラッグストアの煙草の品揃えがすごい(詠み人知らず)
向かいに座ったおばさんの肩口に鶏のささ身がついていた(詠み人知らず)
古い室外機の皺枯れた音で眠れない(詠み人知らず)
隣い住む外国人の部屋から漂う燻香で晩ご飯がいつもエスニック(詠み人知らず)
もうないと思ってからでも案外出続ける歯磨き粉(詠み人知らず)
呑んでいるのか呑まれているのかわからない(詠み人知らず)
とうもろこしをきれいに食べれない(詠み人知らず)
すれちがう対向車線の孤独な運転席の満面の笑顔の意味(詠み人知らず)
それにしても、ことばの力というものは、いやここはあえて日本語の力といわせてもらおうか、すごいものだなと最後に銘記しておきたい。
隣の人と、その情景を思い浮かべて、ともにクスっと笑えるというのは、なにものにもかえがたい無形の力そのものといえないだろうか。
このブログも、呑み屋の四方山話を出汁に、そういう「なんとなく、笑える」をコンセプトに立ち上げたのだが、まれにこういったことばの力を感じる瞬間に立ち会えると、それを書き留めておこうと発心したことも報われる思いがするのである。
今回もそういった記録を残しえたこと、感に堪えないし、春の美空に毎年この自由律句で盛り上がったことを楽しく連想してみて、えもいわれぬ芳香な気分が甦ってくるのであった。
追記:呑み屋の知り合いから聞いた話では、お笑い芸人のさまぁ~ずが過去に「悲しいダジャレ」「悲しい俳句」という企画ならびに書籍の発行もしているようで、コンセプトが今回紹介した自由律俳句に似ているそうだ。実際、YouTubeのさまぁ~ずのチャンネルで同様の動画を拝見したが、たしかに意図するところは同じなようで("悲しいけれど笑える")、こちらも面白かった。おすすめである。